Theobroma ――南の島で1
逃げようとしたのに抱き込まれた。そのまま舌で口をこじ開けようとしてくるから、必死に歯を喰いしばった。
殴ろうとした手首を掴まれて、抵抗はどんどん防がれていく。
閉じた歯列を舌でなぞられる。ゾクゾクと震えが駆け上がる。
(嫌だ! 何してるんだ! なんで、こんなこと!)
熱い唇、舌が蠢く感じ、男にこんなことをされて気持ちが悪いはずなのに、気持ちがいい。
頭がぼんやりしてくる。逃げようと思うのに、身体がうまく動かない。
甘く唇を噛まれて力が抜けていく。
呼吸が苦しくなってきて、口を開いた隙をつかれて、アーチャーの舌に侵入を許してしまった。熱くぬめった舌が遠慮もなく俺の口の中を這い回る。
(俺、何してるんだろう……)
滲んだ視界に森の緑と、褐色の肌と、アーチャーの白銀の髪。
湿気の多い森の濃密な空気に、濃厚な口づけ。
頭がおかしくなる。
こんなのは、初めての経験で、初めてのことで、混乱する。
それから俺はどうやって小屋に戻ったのか覚えていない。気がつくとベッドでうつ伏せに転がっていた。
その夜、アーチャーはいつものように食事を持ってきてくれた。森でのことなんて、まるで覚えてない様子で。
なんだか、ドギマギしてる俺がおかしいんじゃないかとさえ思う。
夢だったのかと、自分の記憶が信用できない。
アーチャーがそんな感じだから、引っ掛かりを覚えたけれど、俺も気にしないようにその時は振る舞った。
「なんだったんだろう?」
二日前のことが頭から離れない。
森でアーチャーが突然キスをしてきたことをずっと考えている。
逃げようとしたのに、逃げられなかった。それに、途中から、気持ちよくなって……。
「あーっ!」
喚きながら小屋の中をウロウロと歩き回り、ため息を吐く。
「寝付けない……」
小屋から出て、浜辺へ向かった。
この島で唯一の浜辺。ここは俺の小屋から近いからプライベートビーチみたいで、ちょっと贅沢だ。
波の音がする。
月光が明るくて、懐中電灯を持たなくても平気だった。
月明かりが海を照らしている。光が波に揺れている。
「は……」
ため息が熱い。唇に触れてみる。
「ここに、アーチャーの……」
言ってしまって、恥ずかしさで項垂れる。
「俺……何やってるんだろう……」
アーチャーが何を考えているのかわからない。
あんなことをしたのに、何もなかったみたいに平然としている。
(もしかして、からかわれてる、のか……?)
ぞく、と鳩尾が震える。嫌な記憶を思い出しそうで身震いした。
(アーチャーがそんなことするわけない……)
いつも優しいし、俺のことを気遣ってくれている。
(そういえば最初から頬にキスとかしてきたし、もしかして、そっちの趣味の人なのかな?)
だとしたら頷けるけど、でも、俺、アーチャーのことはなんにも知らないし、アーチャーだって、俺のこと、そんなに知らないはずだし。
それでも、いきなりキスとかできるのかな?
好きでもないのに、そういうこと、できるものなのかな?
俺はできないけど、アーチャーにはできるのかな?
訊いてもいいのかもわからない。せっかく仲良くなってきたのに、ここでギクシャクとかしたくない。
「どうしよう……」
波の音を聞きながら、ぼんやりと考えるとはなしに思っていた。
「シロウ……」
不意にかけられた声に驚く。今の今まで考えていた人が目の前に現れたら、たぶん、誰だって驚くと思う。
思わず身構えてしまう。
アーチャーは眠れなくて、と言った。
俺もそうだったから、なんだか可笑しくなって笑ってしまった。
アーチャーの手が頬に触れる。
俺を見下ろす鈍色の瞳が月明かりを取り込んで光っている。
「アーチャー?」
ごつごつした手。熱い掌。触れられて知る、アーチャーのこと。
何も言わないアーチャーの顔が近づく。
身体に力がこもった。
ぎゅ、と目を瞑った。
またあんなことをするのかと、怖かった。
また、あんなふうに前後不覚になるのが、とても怖かった。
「シロウ?」
呼ばれて、恐る恐る瞼を上げる。
アーチャーの顔が少し滲んで見える。
『なんでこんなこと、するんだ?』
訊いていいかもわからないから、日本語で言った。
アーチャーは答えない。
当たり前だ、何を言われたか、わかってない。
アーチャーを見つめる。
答えを探したくて。
だけど、吐息が触れる距離で止まっていた唇が強引に触れてきて、もう、何もつかめなかった。
***
奴の後に続いて森を歩く。奴はカカオの木を熱心に調べている。
なにやら、この島のカカオでチョコレートを作って世界に売り出すのだ、とかほざいている。
(チョコレート? 子供のお菓子じゃないか……)
呆れ半分で、森を歩く奴について行く。
(あ……)
赤茶けた髪に付いた白っぽい花。
そんなことにも気づかず、一心に木々を観察している横顔。
真剣そのものだ。
琥珀色の瞳は濁りなく、何か尊いものでも見据えているような……。
(何を、オレは……)
今さら何をほだされかけているのか。こいつは、島から追い出す対象だ。それ以上でも以下でもない。
木の枝を見上げている奴に声をかける。
赤茶けた髪に触れて、指を差し込んだ。
(柔らかい……)
その感触に驚きつつ、白っぽい花を取り去った。
こいつはずいぶんとオレに気を許しているようだ。他愛のない話をするようになった。その内容がオレの次の手の糧になるとも知らずに……。
(馬鹿だな、こいつ……)
こいつと森を歩く。
湿気と熱が絡まるようにオレたちにまとわりついてくる。
慣れた暑さだというのに、こいつといるとやけに暑く感じる。
賭けのことでオレが高揚しているからか、なんなのか……。
「あ、そうそう、初めて森に入った時に、迷っちゃってさ。池に辿り着いたんだ。そしたら、そこに人がいてさぁ」
ぎくり、とした。
オレだと気づいていたのか?
なぜ、今まで黙っていたのか?
こいつも何か企んでいるのか?
どんな脅しをかけてくる?
いや、それよりも、あの時、どうして助けてくれなかったのか、などと責められれば、どう言い訳をするか……。
「アーチャー?」
オレが黙り込んでしまったのを不思議に思ったのか、袖を引いてくる。
何を理由にする?
いや、だが、あの時、オレの顔が見えていたのかも怪しい。下手に何か言うよりも、こいつの言い分を聞いてからで……。
「アーチャー? どうかした?」
「シロウ、それは、見知った者だったか?」
「さあ、わかんないけど。俺の見間違いだと思う。たぶん、幻だったんだなぁ。俺、疲れてたし、ほんと数秒だったし」
なんだ、わからなかったのか。
「だけど、すごく、きれいな人でさ……」
その横顔に、なぜか鼓動が跳ねた。
「あの時、真っ暗で、足も痛めてたし、怖くて、どうしようって、ほんと小さい子供みたいに泣きそうだったんだ。だけど、その人を見て、ああ、えっと、幻なんだけど、怖いのとか全部忘れられたんだ」
照れ臭そうにこちらに顔を向けて笑ったこいつは、確実にその幻だと思っているオレに憧憬を抱いている。
作品名:Theobroma ――南の島で1 作家名:さやけ