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Theobroma ――南の島で1

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(は……、わかりやすい奴だ。本当に疑うことを知らない。きっとこいつは、なんの苦労もなく生きてきたのだろう。日本という豊かな国で、家族に愛されて……)
 オレが失ったものを持っていて……。
 妬ましい……。
 そんな感情が肚の底で渦巻く。
「もう少し見ていたかったなぁ。ほんとに、きれいだったんだ。でも幻って、消えちゃうんだよなぁ……」
 幻……。
 オレだとわからず、オレを幻覚と同等にしやがった。
 無性に腹立たしい。
「あ、お、俺がこんなこと言ったの、内緒にしといてくれよな。島の人が聞いたら気味悪がるかもしれないし。でもさ、なんとなくさ、アーチャーに似てる気がし――」
 何も考えられずに手を伸ばしていた。
 何事かを言っている口を塞いだ。
(オレは、何をしている?)
 そう思ったが、触れた唇は柔らかく、その口内は熱く、喰いしばった歯列を舐めて懐柔させれば、抵抗をやめてオレを受け入れる……。
 柔らかい舌を吸い、甘く噛めば、抱きしめた身体が力を失っていく。こいつはオレのなすがままだ。
 悦に入った。
 ただ、それだけ。
 暑くて、熱くて、何も考えられなかった。
 目尻からこぼれ落ちた雫にハッとした。
 滲んだ琥珀色。
 甘い吐息。
 オレを映す瞳は、オレを見ているのか、夢を見ているのか、それとも、幻だと思い込んでいる池にいたオレを見ているのか……。
 目の前のオレを見ていないことが腹立たしい。
(オレは……何に腹を立てているのか……)
 心ここに在らず、といった感じのこいつを、半ば引きずるようにして森を出た。
 奴の小屋へ送り届け、オレ自身、どこか現実味のない感覚で家まで戻った。


(オレは、なぜ、あんなことを……)
 少々、度が過ぎた。
 オレは奴の信用を得ようとしていただけのはずだ、奴を落とす必要などないはずだ。
 あんな濃厚なキスなどしては、警戒されるかもしれない。
 家に戻り、時間が経てば経つほど、オレの行いはマズかったと反省する。
 だが、何を言い訳するでもなく、いつものように夕食を運び、何事もなかったように振る舞って、様子を見ることにした。
 はじめこそ奴は身構えていたが、オレが森でのことを一切素振りに見せないからか、奴は少し緊張しながらだが、普通に接しようとしていた。
 うまく誤魔化せた。
 ただの気まぐれだと思ったのだろう。
 ああいうことに、案外奴は慣れているのかもしれない。男にキスなどされて、文句も言わず受け入れるなど、普通の神経ではできるはずがない。
(そっちの趣味だったか……?)
 ならば、わからなくもないが……。
 奴は、島の若い連中を物色でもしているのか?
(いや、そんな感じでは……)
 それは否定したい、と強く思ってしまう。だが……、
(あいつは、追い出す対象だ……)
 自身に言い聞かせるように何度も思っていた。


「眠れないな……」
 このところ、寝つきが悪い。
 こんなことは、久しぶりだ。十年ほど前に、養い親が亡くなった頃と似ている。
「は……」
 頭を振って立ち上がる。眠れないなら寝なければいい。
 人間は眠らなければ生きられない。睡眠不足が溜まれば、そのうちに眠れるようになるだろう。
 家を出て港へ向かい、海沿いを歩き続ける。いつのまにか砂浜まで来ていた。
 奴の小屋を通り過ぎていたことにも気づかなかった。戻ろうかと思案をはじめて、ふと顔を上げると人影が見える。
 意図していたわけではなかった。
 奴の小屋は砂浜の近くにあるが、会うためだとか、そういう気は全くなかった。
 だがオレは、夜の砂浜で奴と会ってしまった。
 いつもの探検隊のような長袖長ズボンではなく、タンクトップと短パンでラフな格好。
 月明かりに照らされた、日に焼けていない黄白色の肌が艶やかに見える。
「シロウ……」
 オレの声に振り向いた奴は驚きを隠せないようだ。
「あ……れ? なんで……」
 こいつが身構えたのは、やはり森でのことのせいだろう。
「眠れなくてな」
「……俺も」
 こいつはすぐに警戒を解き、微笑を見せた。
 その顔がなんとも言えずそそられる。思わず手を伸ばしてしまう。
 マズいと思ったが、こいつは逃げなかった。じっとオレを見上げている。琥珀色の瞳が、月の青い光の中で輝いている。
「アーチャー?」
 触れて知った滑らかな頬の感触、少しだけ汗で湿った髪。
 腰を屈めて、ひと息にその唇に触れようとした瞬間、こいつの頬が強張った。
 かたく瞑られた目、引き結ばれた唇。
 首筋を撫でていた手が感じた震え。
「シロウ?」
 うっすらと開いた瞼から覗く、滲んだ琥珀色。
「―――――――」
 何を言ったのだろう?
 今、こいつは何を言ったのだろうか?
 オレにはわからない言葉。おそらくそれは、こいつの母国語。
 罵倒か、それとも、恨み事か。
 どちらにしても関係ない。オレはこいつを追い出すだけで……。
「アーチャー……」
 オレを真っ直ぐに見つめる琥珀色の瞳。
 何もかもを見透かされるようで、それを防ごうとして、寸止めしたキスを続行する。
 逃げもしない、抵抗もしない。
 オレは完全にこいつを攻略したと悟った。



***

 カカオの実を収穫し、発酵させ、乾燥して、焙煎。
 ようやくここまで辿り着いた。
 最初のカカオマスができるのはもうすぐだ。
「そろそろ遠坂に連絡入れるかな」
 品質に問題はないと思う。
 あとは遠坂が、うん、と言えば、まず問題ない。
 遠坂凛は俺の幼馴染みだ。世界的商社、遠坂グループの次期CEO。彼女は大学を出てから、世界を飛び回り、世襲で明け渡される座を、わざわざ自力で取りにいく努力家だ。
 その遠坂の持つチョコレート工場で俺の作るカカオマスが使えるという確証が取れれば、あとは作業を進めて、カカオマスを生産していくだけ。
 数日前に届いたばかりの焙煎機は、港の近くの空いた船小屋に置かせてもらった。
 今は使っていないから、と提供してもらった船小屋はデッキのある広めの造りだ。焙煎機が増えても設置できるだろう。
 俺の住む小屋からは少し遠いけど、島の人たちが使うようになれば、便利な場所のはずだ。
 島の人たちが遠巻きに俺の作業を不思議そうに見ている中で、やっと満足のいくカカオマスができて、遠坂にサンプルとして百グラムを送った。
 到着の連絡とともに、すぐに生産を開始してくれとの依頼を受け、俺はもう一度、島の人たちと話し合うことにした。
 村長と、その日は漁があったために、大半は隠居の身の老人たちと、女の人だけになったけど、この島で作ったカカオマスが世界で売られるチョコレートになるんだってことを説明して、この島の一つの産業になるんだってことを訴えた。
 この島は半自給自足。
 だけど穀物に適した土地じゃなくて、もともと島では育てられないから領有権を持つ本国政府の援助で百パーセント仕入れている。
 それじゃダメだ。いつ本国が援助しない、と言い出すかもわからないんだし、島は自立していないと、この島に住む島民たちが路頭に迷うことになる。ビーチもほとんど無くて、リゾート地にも向かないこの島にはまだ若いカカオの木があることが救いだと思う。
作品名:Theobroma ――南の島で1 作家名:さやけ