Theobroma ――南の島で2
それに俺は、この島では部外者だから、島の人に任せた方がいいってわかってたから……。
「帰って来ないのかな……」
今日一日、島の若い人たちがアーチャーを探して、連絡を取ろうとしていたけど、日本みたいに携帯端末とかが普及していないこの島では人の目だけが頼りだ。だけど、誰の目にも留まらずに、アーチャーはこの島を出たみたいだ。
半日もすれば取れる手立てを失って、島の人たちには定期船が港に着く度に様子を窺う、という手段しかなくなった。
一週間が経ち、十日が経ち、それでも島の若者たちは諦めることなく、代わる代わる港に立ち続ける。
俺も焙煎小屋の窓からずっと港を眺めている。船が入るたびに落胆する島の若者を見て、俺も肩を落とすことの繰り返し。
「アーチャー……」
どうして急にいなくなったのか……。
どうして何も言ってくれなかったのか……。
「ああ、そうだった……。俺も、何も言えなかった……」
俺も島を出る時は何も言わなかった。
あの時、アーチャーが、なぜだ、と問う声に答えられなかった。
後ろめたくて、全部が嘘だったってことが辛くて、アーチャーの顔も見ることができなくて。だけど、本当は見ていたかった。最後になるならって、俺は出港した船の窓からずっと港を見ていた。
「だけど、アーチャーは、この島の……」
アーチャーは島人で、帰る場所はこの島で……。
この島にとってのアーチャーと俺の価値は全然違う。俺が何も言わずに島を出ても、島の人たちは帰ったのか、くらいで気にしないだろうけど、アーチャーは別だ。アーチャーは、この島にとって、なくてはならない、大切な島の未来……。
「何かあったんだろうか……」
島を出なきゃならない理由がアーチャーにはあったのか?
何か悩んでいたとか?
だったら相談してくれれば……。
でも、アーチャーは俺に何を言う必要もない。俺たちは、別に、何も……、俺はただ、この島に住んでるっていうだけで……。
「そうだよ……、俺はアーチャーの何ってわけでもない……」
胸がつっかえてきて、何度目かもわからないため息をこぼした。
アーチャーがいなくなって二週間もした頃だろうか、もう港を窺う気力もなく、逃げるように焙煎機の手入れをしていたら扉が開いた。眩しい陽光が射してきて、少し目が眩む。
そのシルエットに目を眇めた。
驚いたなんてもんじゃない。
手に持っていた工具を落としたけど、どうでもよかった。
工具が落ちたことを指摘したアーチャーの声が聞こえたけど、そのままアーチャーに飛び込んだ。
今まで見たこともないジャケットを羽織った、きちんとした格好。その襟を汚れた手で掴んでしまって、悪いなと思いながらも放せなかった。
厚い胸板に額を当ててしまった。こんなことしたらダメだってわかってるのに、自分が抑えられない。
勝手にいなくなったことに腹が立って、アーチャーに不満をぶつけたけど、驚いて俺を見下ろすだけのアーチャーの鈍色の瞳を見ていたら、だんだん冷静になってきた。
(あの時の、アーチャーなら……)
そんなことを思って、胸が潰れそうに痛くなった。
(嘘だったら、俺を抱きしめてくれるんだよな……)
俺をからかっていた時なら、きっとアーチャーは抱きしめてくれたはずだ。
(だけど、今は、違うんだよな……)
嘘でもいいから抱きしめてほしいなんて、俺、ちょっと、どうかしてる。
「よかったよ……帰ってきてくれて……」
声がちゃんと出ない。
食事を持ってきてくれる、と言うアーチャーに礼を言って、涙はどうにか飲み込んだ。
***
「通訳をしてもらえないかな」
網を修理していると、船小屋にマトウがやってきて、英語でそう言った。
こいつ英語が話せたのか。
日本語から英語への通訳と、英語から島の言葉への通訳を二人連れてきていたくせに……。
返事をすることもなく、じっとその顔を見ていると、居心地悪そうにマトウは続けて口を開く。
「ほ、本国でカカオマスを仕入れてもらえるように交渉したいんだ。おま……、いや、えっと、き、君は、本国のホテルで働いていたことがあるんだろう? だから、通訳を、してもらいたい」
理由を述べて、真っ直ぐにオレを見返してくるマトウは、この島のカカオマスを売ることに必死なようだ。トーサカリンの会社一辺倒ではなく、販路を広げ、堅実な利益を生む方法を模索している。
最初に島に来た時とは大違いだ。彼を変えたのも、やはりシロウなのだろう。
「わかった。引き受けよう」
島のために動く者を手伝わないわけにはいかない。たとえ、いけ好かないマトウであっても、私情は挟むべきではない。
「じゃ、じゃあ、よろしく頼むよ、アーチャー」
右手を出してきたマトウと握手を交わし、翌日からオレはマトウの通訳として本国に行くことになった。
気乗りしていたわけじゃない。マトウと行動するなら、島でシロウの姿を遠目にでも見ている方がいい。
そう思っていたが、仕事に打ち込むマトウに少し感心させられた。
カカオマスを売り込むマトウは真剣そのものだった。
世界規模の商社の御曹司らしいが、そんな奢りも厭味もなく、彼はビジネスマンとして島のカカオマスを売っている。
そんな姿を見せられて、黙って通訳に徹していることなどできるわけがない。オレたちの島のカカオマスをマトウは売り込もうとしているのだ、手を貸さないわけにはいかない。
オレはカカオマスの生産に携わっているために説得もしやすい。気づけば、マトウとともにオレも売り込みをかけていた。
オレが一時期勤めていたホテルに宿泊していたため、お世話になっていた支配人に顔を繋ぎ、マトウを紹介した。
商談のつもりではなく、何か実になる話でもないかと思っただけだったが、カカオマスの話をするうちに、チョコレートを使った料理などもあるのだと料理長が教えてくれる。
オレもこのホテルで料理人として働いていたため、思わず料理長とメニューを真剣に考え込んでしまっていた。
料理長と試行錯誤をするうちに、調味料としてカカオマスを仕入れるという商談があっという間に成立し、ホテルのロビーで支配人と料理長と別れる。
またうちで働かないか、と誘われたが断った。オレは島で生きると決めたのだから、と。
料理長は残念がっていたが、遊びに行くとは伝えておいた。
「君は、すごいな」
マトウが驚いた顔でオレを見上げる。
「何がだ?」
「商才があるんじゃないか? 今後も一緒にカカオマスを売りに世界を飛び回らないかい?」
「お断りだ」
「即答だな……。少しくらい、悩むとかしてもいいだろ……」
残念そうなマトウに、肩を竦める。
オレは島を離れるつもりはない。島にはみんなが、……シロウがいるのだから。
「とりあえず、ここでのノルマは十二分にこなしたよ。明日の定期船で島に戻るから、あとは自由だ。久しぶりに羽根を伸ばしてきなよ」
そう言って、マトウはエレベーターの方へ歩いていった。
「羽を伸ばすと言ってもな……」
何をするでもないが、ホテルを出て、ビーチへと続く遊歩道へ向かう。
昼間、リゾート客でにぎわっていたビーチは閑散としていた。
作品名:Theobroma ――南の島で2 作家名:さやけ