Theobroma ――南の島で2
傾いた夕陽に赤く染まる砂浜。
そこには昼間の喧騒はなく、波打ち際を歩く親子連れや恋人同士が数組、戯れているだけだ。
「シロウ……」
思わずこぼれた名は、呼ぶことを許されない名だ。
気づかずに壊してしまった、いや、初めから破綻していた、オレとシロウの関係……。
触れていたいと思いながら、傍にいてほしいと願いながら、そんな自身の気持ちにオレは気づかず、シロウを傷つけ、シロウを島から追い出した。
「今さら……何も取り戻すことなど、できやしない……」
サグは、どうして許されている、などと言ったのだろう?
サグは、シロウの何を知っているのか?
胸の奥が燻る。
オレの知らないシロウを、サグが知っているのかもしれないと思うと、頭の上がらない幼馴染みにさえも牙をむきそうになる。
「は……」
何度もこぼしたため息は、苦いばかりだ。
シロウの甘い吐息を感じたい。
この苦さをあの甘い唇で受け取って、カカオマスの苦さを知るあの舌で掬ってほしい。
「苦しいんだ……、どうすればいい……? …………シロウ……」
訴えることのできない苦しさが、ギシギシと胸の内で軋んでいる。
まるで異物の挟まった歯車のようだと思った。
そのうちに負荷がかかりすぎて壊れることが目に見えている、そんな脆い歯車だと……。
赤い夕陽が名残惜しげに沈んでいく。
往生際の悪さはオレといい勝負だと、そんなことを思って、ただ暮れていくビーチで立ち尽くしていた。
マトウとともに本国のホテルやレストランを回り、ある程度の成果を得て半月ぶりに島に戻ると、港は何やら人だかりができている。
「アーチャー!」
サグが血相を変えて走ってくる。
「何かあったのか? みんな、何をして――」
「お前! どこ行ってたんだよ!」
「どこ、とは、本国だが」
「本国って、なんで!」
「通訳として、マトウとともにホテルやレストランを回って――」
「通訳? はあっ? なんだよそれ!」
「なんだ、とは? マトウに聞いていないのか?」
「知らねぇよ!」
一緒に港に下りたはずのマトウの姿は既にない。
どういうことなのか?
出発が未明だったため、マトウが村長に先に話してあると言っていたのだが。
「そ、それより、シロウが大変なんだよ!」
「なにっ? どういうことだ! まさか、また、あいつらが、」
「ちげーよ! お前がいなくなったからだよ!」
「は?」
サグに腕を引かれながら焙煎小屋へ向かおうとするが、途中で島のお年寄りやサグの親や仲間の親たちに囲まれる。
「サ、サグ、どういう状況だ!」
「お前が島を出ちまったって、大騒ぎだったんだ!」
「マトウが村長に話したと言っていたぞ!」
「村長も知らないって言うから、こうなってんだろ!」
島の人に囲まれて、適当に相手をしながらサグに事情を話す。
「そ、それよりも、シロウが、なんだ!」
「だから! 様子が変なんだよ! お前がいなくなってから!」
「どういうことだ!」
「知らねぇよ! 殻剥きも中途半端だわ、焙煎機のネジ締め忘れるわ、麻袋落っことしてカカオ豆ぶちまけるわ、とにかく、普通じゃねぇんだって!」
どういうことだ?
シロウの様子がおかしいことに、どうしてオレの不在が関係する?
「とにかく、焙煎小屋にいるから、行け!」
島の人たちをサグに任せて、やっとのことで焙煎小屋に入ると、焙煎機の手入れをしていたシロウがオレを見て工具を落とした。
「シ……、エミヤサン、工具が、落ち――」
ど、と体当たりをくらって、半歩下がった。
「ど、どこ行ってたんだよ!」
「あ、ほ、本国、に……」
ジャケットの襟を握りしめたシロウは、オレの胸元に額を当てたままだ。
いったい、何がどうなっているのか。
「なんで、なんにも、言わずに! なんで、黙って!」
「あ、ああ、悪かった、食事が――」
「ご飯なんて、どうでもいいよ!」
食事を用意できなかったから怒っているのではない?
ならば、いったい?
「いなくなったのかと、思っただろ!」
「いや、通訳として本国に行くと、村長に話しておくからとマトウが言っていたはずなのだが、それが、どうも、話が伝わっていなくて、だな……」
「はあ? 慎二の通訳? そんなの、村長さん、知らなかったぞ!」
胸元からオレを見上げて、シロウは怒っている。
「マトウが話しておくからと……」
「慎二のやつ、言い忘れたなっ!」
シロウが怒っている。
こんな顔は、初めて見た。
いつも温和な顔で、日本にいた時も、こんなふうに怒ったりはしなくて……。
初めて見る表情に、こんなに近くにいることに、抱きしめてしまいそうな腕を必死で抑えて拳を握る。
(シロウ……)
もう手遅れだというのに、オレはどうしてこうも、諦めが悪いのか……。
抱きしめたくて仕方がない。口づけたくて、シロウの傍にずっといたくて……。
(だが、もう、許されないことだ……)
オレには触れる資格すらない。
「び、びっくり、したんだ……、アーチャーが、いないって……、みんな、大騒ぎしてて……」
襟を掴んでいたシロウの手が滑り落ちる。
「よかったよ……、帰ってきてくれて……」
項垂れたシロウが離れていく。背を向けるその肩を掴んで抱きしめたい。
「こ……、今夜は、きちんと食事を、持っていく、から……」
「あ、うん、あり、がと……」
少し、その声が涙声だと思ったのは、気のせいだろうか?
オレの勘違いなのだろうか……?
もしかしてシロウは、オレがいなくなったと思って、心配を?
(いや、シロウは優しいから……。島のみんなのことも許してくれて、またこの島に戻ってきてくれて……)
顎がだるくなるほど噛みしめた奥歯も、握りしめた拳も、シロウのいるこの焙煎小屋から動こうとしない足も、無理やり納得させてその場を離れた。
これ以上傍にいると、自分が何を言いだすかわからない。
またシロウを傷つけてしまう。
(そんなことは、したくないんだ……)
シロウを悲しませたくない。
だから、近づきはしない。
島のためにここに戻ってきてくれたシロウに、オレは何を返せるのだろう……。
オレが島に返せるものすら、いまだに答えが出ていない。
(オレは、島に、シロウに、何を返せばいいんだ……)
わからなくて、途方に暮れる。
色々な経験をして、それなりに大人になったというのに、オレはまだ、ガキの頃と同じ疑問を浮かべているだけだった。
***
「なあ、シロウ」
焙煎機の手入れを手伝ってくれる、サグが声をかけてきた。
サグはアーチャーと一番仲がいいんじゃないかと思う。アーチャーがすごく信頼してるってわかるから。それに、サグもアーチャーのことをすごく理解しているって思うから。
「なに?」
「あのさ、やっぱ、まだ、怒ってる、か?」
「何を?」
「おれたちのしたこと」
ぽかん、とする。
少し上目で、窺うような顔で言うから、笑ってしまった。
「怒ってないよ」
そう返すと、しばらく居心地悪そうにしていたサグは、にか、と笑った。
「そっか、よかった」
島の人にも、俺をからかって追い出そうとしていた島の若い人たちにも、島に戻ってきた時、すぐに謝られた。
作品名:Theobroma ――南の島で2 作家名:さやけ