Theobroma ――南の島で2
島でシロウが寝泊まりしていた小屋の半分もない広さの部屋に、寝具のようなものが折りたたまれて置いてある。
窓には数着の服がカーテンのように掛けられているだけで、家具も何もない。
「どう……したんだ? 旅行か何か?」
「シロウに謝りたくて」
「なに言ってるんだ……」
「オレのしたことも、島のみんなの分も謝りに――」
いきなり腕を掴まれて立たされる。
「シ、シロウ?」
「ごめん、帰ってくれ」
「シロウ!」
靴をきちんと履く間もなく扉の外へ追い出される。
「シロウ!」
扉を叩き、何度も呼ぶ。だが答えはない。
「シロウ……っくしゅ!」
島とは縁遠い寒さに身震いする。確か日本には冬という寒い季節があるのだとか。今はその時期なのだろう。
「…………シロウ……」
扉を見つめ、ため息がこぼれる。
悔恨ばかりが募る。
彼を傷つけて、彼を追い出して、オレたちは、本当に彼のすべてを壊してしまったのだと思い知る。
(今さら、そんなことに気づいたところで……)
だが、オレは謝らなければならない。
島のことも気にはなるが、それよりもオレには彼のことの方が最重要事項だった。
「シロウ……」
すぐに許してもらえるなど思っていない。
(仕方がない、ここで持久戦だ)
扉の横にしゃがみ込んで、ずず、と鼻をすする。手足が冷えて感覚がない。
寒さは意気込みだけではどうしようもないと、身をもって理解する。
島にいる時と大差ない格好では当たり前だ。オレは相当焦っていたのか、気候のことにまで気が回らなかった。一時は本国のホテルでも、そつなく仕事をこなしていたというのに、なんたる失態だろうか。
「は……」
息を吹きかけても、手は温まりもしない。
がちゃ、と音がして顔を上げると、
「ごめん、寒いよな」
彼は部屋の中へと引き込んでくれた。
「シ……」
「行くところ、ないんだろ? 部屋の前で凍死とかされたら迷惑だし」
手を取られ、温かい紅茶を手渡される。
「ティーバッグだけど、一つだけ残ってたから、お客さんには特別」
「あ、ありが、とう……」
急な態度の変化について行けず、促されるままに腰を下ろした。
「それで? 何を謝るって?」
「シロウに、酷いことをした。それを、謝りたい」
「……うん」
「それから、結果的に、島から追い出すようなことをしてしまったことも……。シロウが真剣に島のことを考えていたというのに、我々は何一つシロウを理解していなくて、いや、理解しようともしなくて、それを、オレは、後悔している……」
「そっか……。うん、わかった」
「え……?」
「うん、だから、わかったって」
「シロウ、その……」
「あんたの気持ちも、島の人たちの気持ちも、わかったよ」
淡々と告げられて、言葉に詰まる。
「では、シロウ、島に戻ってくるのか?」
「それとこれとは、話が別じゃないか。可笑しなことを言うんだな」
「別……」
「そうだよ、別の話だ。ごめんなさい、って言う人に、許しません、なんて、俺、言えないし」
「な、ならば、それは、シロウは、心から許していないということでは――」
「そうだよ」
彼の声が低くなった。聞いたこともない声だ。
「シロウ?」
「気安く呼ばないでくれるかな。俺、あんたに名前で呼ばれるような関係じゃないし」
冷たい声だった。この日本という国の冬という季節のように、冷え切った声。
「明日、早朝出勤なんだ。俺、もう寝ないとダメだから。そこの布団使ってくれていいから。そんで、明日、出てってくれ」
シロウは取り付く島もなかった。
島にいた時とは別人のようだった。
何も言えず、言われるままに寝具を広げる。
シロウはダウンジャケットのまま横になってしまった。灯りを消し、暗い部屋を照らすのは、窓の外からの光。それは星や月ではなく、道端を照らしている街灯だ。
「シロウ……」
途方に暮れてしまった。
謝れば何かが変わると思っていた。
もしかしたら、シロウはすぐにでも許してくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。
(オレは、どうすればいいのだろうか……)
寒々しい小さな部屋にシロウの静かな寝息が聞こえる。
こんなに近くにいるのに、とても遠いところにシロウはいるのだと気づいた。
目を開けると薄暗い部屋にシロウの姿はなかった。
「ああ、早朝から仕事だと言っていたな……」
寝具を元のようにたたみ、部屋を見渡す。
何もない部屋。寒くて暗い、シロウには似合わないと思った。
「シロウ……」
カバンから携帯食を取り出して齧る。空港で買ったボトルの水は冷え切っていた。
「さむ……」
ガタガタと震える。島で震えるとしたら、恐怖を感じた時くらいだろう。
寒くて震えるなど初めての体験だ、と思いかけて、寒くて震えたことが今までに一度だけあることを思い出した。
海を漂流していた時だ。
ずっと海に浸かっていたために冷えた身体がガタガタと震えていた。
あの時は自分がどうなるのか、死ぬのか、生きるのか、いや、死ぬだろうが、どうやって死ぬのかと、恐怖心もあいまっていたから、純粋に寒くて、ということではなかったかもしれない。
「凍え死ぬ、なんて本当にあるんだな……」
自嘲の笑みをこぼし、このままここで凍え死んだりしたらシロウに迷惑だなと、ため息をこぼした。
「まだ、いるんだ……」
扉が開いて、聞こえた呆れ声に頷く。顔が上げられない。ここに居座るのも、もう三夜目になる。
「シロ……、エミヤサンが許してくれるまでは、帰るわけにはいかない」
「……あんたがいないと、漁に支障が出るんじゃないのか?」
シロウはもうオレの名を呼んではくれない。“あんた”という呼ばれ方が、とても他人行儀で、とても息苦しい。
「オレがいなくても、漁はできる」
シロウのため息が聞こえる。迷惑なのはわかっている。ずっとここに居座られるのは嫌だろう。だが、シロウが心からオレを許してくれるまで、オレは帰るわけにはいかない。
だが、どうしたことか、昨日あたりから頭痛がする。眠くもないのに瞼が重い。
「お金あるんなら、ホテルとか取ったらどうだ? ここじゃ寒いだろ? 昼間、何してるか知らないけど、暖房もないんだし、南国育ちのあんたには厳し、って、おい!」
なんだろう、肩を揺すられている。
何を言われているかわからない。
ああ、そう言えば、あの言葉は、なんと言ったのだろう。
島での最後の夜、オレにキスをしたシロウは、オレに何を言ったのだろうか……。
「アーチャー?」
心配そうなシロウの顔。
オレは島に戻ったのだろうか?
シロウがオレを呼んでくれる。
(いや、夢だな……)
シロウはもう、オレを呼んではくれない。
それが、とても苦しい。
(夢なら、触れてもいいだろうか?)
もう、触れることも許されないのだから、せめて夢で……。
そっとシロウの頬に触れると、オレの手に手を重ねて握ってくれる。
(ああ、そうか……、オレは……)
こんなにもシロウを欲していたのか……。
何度もキスをしたのも、毎夜浜辺に向かったのも、オレはシロウに会いたくて、触れたかったのだ。
(そんなことに、今ごろ気づいているとは……)
作品名:Theobroma ――南の島で2 作家名:さやけ