Theobroma ――南の島で2
髪を撫でてくれる手が心地好くて、意識が落ちていく。
もう少し、この夢を見ていたい。
「シロ……ウ……」
傍にいてほしいなど、今さらどうやって伝えればいいのか……。
オレは、シロウを傷つけてしまったというのに。
オレはもう、許してはもらえない。ここにいても、シロウには、迷惑なだけだ……。
だが、それでも、傍にいたい。
「……シロウ…………」
そっと頭を撫でてくれるのは、シロウの手だろうか……、これも、夢なのだろうか……。
***
「はぁ、今日は冷えるなぁ……」
ダウンジャケットを着ていても身震いしてしまう。南国に慣れた身体には日本の冬でも辛い。
「明日は早出かぁ……」
部屋に着いたらすぐに寝られるようにと、工場の仮眠室でシャワーを浴び、食堂で晩ご飯も済ませてきた。使っていいってものなら使わせてもらう。こっちはお金を貯めなきゃならないんだ、贅沢はできない。
「でも、この季節にシャワーだけだと、風邪ひくかな?」
ふ、とため息を漏らしながら島での生活を思い出した。
外の水道で身体を洗っても寒くなんてなかった。熱帯の島には熱いシャワーなんて必要なかった。
戻ることのできない場所は、俺のすべてだったと、やるせなさや悔しさや、いろんな感情が時間の経過とともに、澱のように心に沈殿していく。
「好きになんて、ならなきゃよかった……」
どうして俺はアーチャーを好きになんてなったんだろう。
(男なのに……)
確かに女の子は苦手だけど、別に男が好きだとかっていうことでもなかった。
優しかったからだろうか、それとも、強引だったから引きずられただけだろうか。
でも、そのどちらも、嘘なんだ。アーチャーの本当の気持ちなんかじゃない。
「嘘でもあんなふうに、笑えるんだな……」
アーチャーは俺によく笑いかけてくれた。島の人たちといる時とはなんだか表情が違うように見えたから、俺にだけなのかと思って、舞い上がっていた。
それが、全部、俺を騙すための仕掛けだったんだ……。
完全に騙された。
心の底から騙された。
もう、ここまで騙されたら、いっそすっきりしている。
「夢って、儚いよなぁ……」
冷たく澄んだ空気を吸い、冬の夜空を見上げた。
オリオン座が瞬く。島で見た星空は、星がたくさん見えすぎて、どれがどの星座だとかが全くわからなかった。
「全然違うな……」
白い息を吐いて足を進める。
カン、カン、カン、と錆びた階段を上がって、鍵を手にして、顔を上げる。
「…………」
通路の奥、俺の部屋の前にしゃがみこんだ物体に足が止まった。
声が出ない。
驚きで、頭が真っ白だ。
「シロウ」
懐かしい声。
だけど、嘘なんだ。
目の前に来たその顔を見ることができない。
じり、と足が後退する。踵を返して逃げようとしたら背後から抱きしめられた。
(なんで……?)
どうしてここにいるのかとか、そういう疑問もあるけど、それよりも……、
(なんで、抱きしめたりするんだっ!)
怒りなのか、悔しさなのか、悲しさなのか、混乱する中で、階段を上がってくる足音を耳に拾う。
迷ったのは一瞬。
そのままアーチャーを俺の部屋の前まで押していって、玄関の中に押し込んで扉を閉めた。
とりあえず部屋に上げたけど、アーチャーは謝りたいなんて言うから追い出した。
扉に背を預け、項垂れたまま歯を喰いしばる。
(なんで、こんなとこにまでっ……)
扉を叩く音がする。
近所迷惑だし、あんまり叩いて壊されたら嫌だなとか思ってると静かになった。
諦めたのかと思って耳を澄ますと、くしゃみをしている。
(そりゃ、あんな薄着じゃな……)
アーチャーは長袖だったけどシャツ一枚で上着も持っていなかった。カバンは持っていたけど、防寒着みたいなのが入ってる様子じゃなかった。
ずず、と鼻をすする音がする。
(寒いよな……)
冬なんて季節も知らないアーチャーが、あんな薄着で真冬の日本で外にいて、それに今夜は特に冷えてるし……。
仕方なくアーチャーを部屋に入れた。
アーチャーの話を聞いてやって、それから、明日出て行ってくれって、ちゃんと言えた。
案外、冷静に話すことができた。
明日は早出だし、俺は早朝に家を出る。俺が仕事から帰った時にはもういない。
(そうだ……、もう、関係ないんだ……)
自分に言い聞かせるように思っていた。
仕事から帰ると、アーチャーは布団をたたんだ脇に座っていた。
「なんで……、いるんだよ……」
もういないと思っていたのに、アーチャーがまだ俺の部屋にいることが不思議でならない。
「シ……、エミヤサンに許してもらえるまで、島に戻るわけにはいかない」
馴れ馴れしく呼ぶなって言ったら、アーチャーは俺をエミヤサンと呼ぶようになった。しょっちゅう言い直してるのが、ちょっとだけうれしいとか、思ってしまう。
(どうしようか……)
昼間、この部屋にじっと籠もって、俺の帰りをずっと待たれても困る。夏ならいいけど、暖房器具もないこの部屋は、日当たりも悪いし寒すぎるし、体調を崩しそうだ。
(ご飯はどうしてるんだろう? 何か、持ってるのか……?)
そんなことを考えながら、明日も早出だったことを思い出して横になる。何も言わないアーチャーを垣間見ると、すごく寒そうだ。
(寒い部屋で薄着で、指先、震えてるじゃないか……)
仕方がないから布団で暖を取れと教えてやった。
「寒いなら、それかぶっとけばいいよ」
布団を指して言うと、
「これは、シロ……、エミヤサンの、だから……」
ずず、と布団を俺の方へ押してくる。
「俺はいいよ。あんたが使えばいい。俺はダウン着てるんだし、平気だ」
返答は聞かず、俺は今度こそ寝るために横になった。
アーチャーが俺の部屋に居座って三度目の夜、予想通り熱を出した。
「バカ……」
俺の手を握って、苦しそうな声で、俺のことを呼んで……。
「手、離してくれないと、仕事、行けないんだけどな……」
そんなことを言いながら、行く気が出ない。
また何時間も冷凍食品を作るだけの仕事だ。
俺には、なんの意義もない。なんの夢もない。
「アーチャー……、また会えるなんて、思ってなかったよ……」
白銀の髪を梳きながら、こぼれる涙を止められなかった。
アーチャーが本気で俺に特別な感情を持っているなんて思ってなかった。からかわれてるんだってわかってたのに、アーチャーの瞳が、熱が、嘘じゃないんじゃないかって、俺はどんどん舞い上がって……。
でも結局、遊んでただけだったんだよな……。
「なのに、なんでさ……」
どうして、ここまで来てくれたんだ?
冬なんて知らないくせに、こんな寒い時に日本にまで来て、風邪ひいて、バカじゃないのか?
「謝りたいって、そんなの、手紙でも、電話でも、別に、会いに来なくたって……」
うれしかった。
俺に特別な気持ちがあるわけじゃないんだとしても、悪かったって、直接謝ろうとしてくれたアーチャーの気持ちが。
「だけど、島には戻れないよ……、だって、これ以上、アーチャーと一緒にいたら……、俺、きっと、嫌われるから……」
作品名:Theobroma ――南の島で2 作家名:さやけ