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Theobroma ――南の島で2

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 今、目の前にいるっていうだけでも、けっこう辛いのに……。
 そっと褐色の頬を指先で撫でる。
「アーチャー……」
 ふ、と瞼が開いた。鈍色の瞳が俺を見る。
 どうしようかと迷う中、アーチャーの手が彷徨って俺に伸ばされてくる。
 逃げることはできた。
 払い除けることだってできた。
 なのに、頬に触れるその手に、俺は手を重ねた。
「シロ……ウ……」
 熱に潤んだ瞳で俺を呼んでくれる。
 エミヤサン、だとか呼んでたくせに……。
「……アーチャー…………」
 白銀の髪を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じた。
(ああ、ダメだな……)
 俺、どうしようもないところまで、来てるんだ……。
 アーチャーの髪を撫で梳きながら、自分の想いを噛みしめていた。



***

 くつくつくつくつ……。
 微かな音がする。
 部屋がいつもよりも暖かい。
 なんだろう、この香りは?
 ぐぅ、と腹が鳴る。
 ああ、そういえば、まともな食事は機内食以来していない。
「目が覚めたか?」
 優しく聞かれて頭を起こした。
「シ…………エミヤサン……」
 なぜ彼がここにいるのだろう。
 今は昼間のようなのに、今日は仕事が休みなのだろうか?
「お粥、食べられるかな?」
「お……か、ゆ?」
「えっと……、お米を柔らかく炊いたやつなんだけど?」
 小さなコンロの火を消したシロウが、その、おかゆ、というものを器によそっている。
「起きられるか?」
 シロウに支えられて、どうにか座った。背中にシロウのダウンジャケットを掛けてくれる。
「オレは……」
「熱が出て、二日も眠ったままだったんだ。昼までに目が覚めなかったら病院に連れて行こうと思ったんだけど、よかったよ、目が覚めて」
「……すまない」
「ん。まあ、病気は、仕方がないから」
 シロウにおかゆを手渡される。
「熱いから気をつけてな」
 ぼんやりと頷き、スプーンに掬って、口に入れて、
「っ! あ、つっ!」
 その熱さに吐き出しかけたのをどうにか飲み込んだ。
「っ、けほっ、こほっ!」
 その刺激に喉が引き攣ったのか噎せる。
「バカ! 熱いからって言っただろ!」
 だからといって、こんな、火傷をするほどだとは思わなかった。
 シロウが器を奪い、水をくれる。
「もう、なにぼんやりしてるんだよ!」
 シロウが少し怒りながら、おかゆをスプーンに掬い、息を吹きかけている。
「はい、口開けて」
 言われるままに口を開けると、ちょうどいい温度のスプーンを差し込まれた。
「子供じゃないんだから……」
 呆れるシロウに申し訳なくて顔が見られない。
「ほら、アーチャー、あーんって」
 シロウがオレを呼んだ。
 驚いて顔を上げると、目の前におかゆを掬ったスプーンがある。
 もう熱さもわかったし、両手が不自由でもないのに、シロウはおかゆを食べさせてくれる。
 あんなことをして傷つけたオレに、島を追い出したオレたちに、どうしてシロウは優しくしてくれるのだろう?
「アーチャー?」
 “お前は、島の子だよ”
 しわくちゃの笑顔を思い出す。
 オレを引き取って、オレに島のことを教えてくれて、いつもオレを受けとめて、オレを育ててくれたダーダの笑顔。
「っ……」
 なんだろう、これは。
 オレは、どうしてしまったんだろう?
 目が熱い。
 鼻の奥が痛い。
「あの、アーチャー? どうした?」
 シロウに答えられなくて、下を向く。目から何かが落ちた。手で受け取ろうとすると、水で濡れた。
「な……」
 オレは、何を、これは、いったい……。
「アーチャー、大丈夫?」
 シロウに答えられない。なんでもないんだと言おうと思うのに、喉が痞えて声が出ない。
「アーチャー……」
 そっと頭を撫でられる。そのままシロウに抱き寄せられた。
 どうして、オレに優しくする?
 オレはシロウに許されないことをした。
 なのに、どうして、シロウは優しいんだ……。
 あの時も、どうしてだ、と思ったのに、訊けなかった。
 ダーダはどうして、オレの面倒を看てくれたんだ。
 答えを聞く前に、ダーダは亡くなってしまった。オレが反対を押し切って、本国に行ったりしなければ、答えを聞くことができたのに……。

「サグ……」
「んー?」
「涙が出ないんだ……」
「……んー、うん」
「やっぱり、オレは、」
「島の子だよ」
「サグ、気休めは、」
「お前は、島の子だ。森の池で泳ぐのが好きな、こんな時でも漁の網の修理なんてしてる、島の子」
 サグはオレの言葉を遮ってきっぱりと言う。
「ああ、そう……だな……」
「ダーダがいなくなったって、アーチャーは島の子だかんな。そんで、おれのダチ」
 サグは網を縫う手を止めることなく淡々と言った。
 ダーダが亡くなっても泣けず、悲しいと思うのに表情を失ってしまうだけのオレを島の子だと、サグは言ってくれる。
 十五になる頃に育ての親のダーダが亡くなった。少し前からはじめたアルバイトのために本国へ行っている間の急なことだった。
 急いで島に戻ったが、ダーダは島の花に包まれて、眠っているだけだ。
 オレは訊きたかったのに……。
 どうしてだと、アルバイトで稼いだ金でダーダの好きなウイスキーを買って、オレの作った肴を食べて、陽気になったダーダに訊こうと思っていたんだ。
 どうしてオレを育ててくれたのか、どうしてオレに優しくしてくれるのか、どうしてオレを島の子だと言ってくれるのか……。
「アーチャー、悲しくてもさ、涙が出ないこともあるって。悲しすぎて、身体がついてかねーんだよ。泣くことが、悲しみの大きさじゃない」
「そうか……」
 サグの言葉はとても胸を打った。
 同時に、どうしてだろうと疑問が浮かぶ。
 どうしてサグもオレに、と……。
 その頃からずっと考えている。
 島で生きるオレには何ができるのだろう。
 島の人たちにオレは何を返せばいいのだろう。
 オレを育ててくれた、オレを生かしてくれた、この島に……。
 ダーダにも、島の人たちにも、オレは訊けないままだ。
 訊く勇気が出ないままだ。
 シロウは答えてくれるだろか、オレが訊けば……。
 いや、そんなことを訊けるはずがない。
 オレはシロウに許されない。
 シロウはオレを許さない。
 オレは、ずっと訊けないままで、ずっと知らないままで……。
 ずっと、オレはシロウのいない島で生きていくのか……。
 嫌だと思った。
 このままひとりで、シロウに許されないままでは……。

 気がつくと部屋は暗く、窓から街灯の灯りが入ってきているだけ。
 暖房設備もないのに温かいのは、シロウがオレを抱きしめているからだ。
 オレはあのまま眠ってしまったようだ。
 懐かしい夢を見た気がする。懐かしいのに心苦しい夢を……。
 それにしても驚いた。
 自分でも、ビックリだった。
 ダーダが亡くなった時でさえも涙は出なかったのに、オレにも涙などというものがあったのか。
 シロウは何も言わずに、オレを泣かせてくれたみたいだ。そのまま眠ってしまうなど、まるで、子供のようだな……。
「シロウ……」
 呼んではいけないと思いながら、呼んでしまう。
「……シロウ…………」
 苦しい。
 名を呼ぶだけでも、苦しくて仕方がない。
作品名:Theobroma ――南の島で2 作家名:さやけ