Theobroma ――南の島で2
苦いため息をこぼして、繰り返す波の音を聞いていた。
***
寝付けずに、月明かりの中を歩く。気がつくと砂浜の近くまで来てしまっていた。
シロウの小屋は明かりが消えているので、もう寝ているのだろう。
誰もいないのなら、と足を進めたが、向かう先には二つの影があった。
夜の砂浜、朽ちかけの木舟に座った、寄り添うような影。
シロウとトーサカリンが何か話している。
内容はわからない。二人だけに通じる母国語だ。
「オレには……」
理解できない言葉。
シロウと話す時はいつも英語で、島の言葉をシロウは解しているが、まだ話すのはたどたどしい。
したがって細かな言葉のニュアンスが感じ取れない。
おそらく母国語同士であれば、なんら問題ない会話が成り立つのだろう……。
胸が灼けるようだった。
トーサカリンがシロウの頭を撫でている。
二人は幼馴染みだと言っていた。きっと、オレの知らないシロウを彼女はたくさん知っている。
見ているのが辛いと思うのに、シロウの姿を少しでも見ていたい。
いつも、視線で追っている。
いつも、どこにいるのか探している。
オレはこんなにも、どうしようもないくらいに、シロウに惹かれてしまっている。
(やめなければ……)
歯を喰いしばって踵を返した。
家に戻っても眠れるはずもなく、今夜、彼女はあの小屋に泊まるのだろうかと、そんなことばかりが頭を占めていた。
「あつ……」
焙煎小屋から出て、潮風に当たる。
さすがに焙煎小屋の中は熱い。冷たいわけではない島の風が心地好い。
「は……」
今日も時化で漁に出られないオレたちは、朝からカカオマス生産に携わっている。
「本当に、漁の方が楽だな」
港の岸壁まで来てしゃがんだ。
「まだ波が高い、漁は明後日からか……」
膝に頬杖をついて、ぼんやりと海を眺める。
波の音を聞いていると、あの夜のことを思い出す。
シロウが言った日本語。
いまだになんと言ったのかも訊けずにいる。
「スー……、キ、ダ……タヨ」
「なあに、それ?」
不意に声をかけられ、顔を上げる。
「なんていう意味? 島の言葉なの?」
トーサカリンは不思議そうに訊いてくる。
(昨夜……)
シロウとともに過ごしたのだろうか?
そんなことばかりが頭の中で渦巻いている。
「アーチャー?」
隣にしゃがんだ彼女に顔を覗き込まれて、ハッとする。
「あ、ああ、いや……、に、日本語だ」
「日本語?」
「スー、キー、ダ、タヨ」
「スーキーダ? スー……、スキ、ダッタヨ、かしら?」
彼女はいとも簡単に、あのシロウの言葉を再現してくれた。
「そ、そう、それだ! どういう意味だ?」
勢い込んだオレに、彼女は驚きつつも考えを巡らしている。
「ど、どういうって……、そうね、シチュエーションにも、相手にもよるけど……、まずその言い方だと、別れ際?」
「あ、ああ、そうだ」
鋭い。どうして、そんなことがわかるのだろう。
「それから……、そうね、相手は笑っていたり、した?」
「ああ、そうだ、なぜわかる?」
「ふーん、アーチャーも、すみに置けないわねぇ。ちょこっと日本にいる間に、そーんなこと言われるような関係の女の子作るなんて」
「いや、オレは……」
「はーいはい、照れなさんなって!」
彼女は何か誤解しているようだ。
「そ、それで、意味はなんだ!」
早く知りたい。あの時、シロウはなんと言ったのかを。
「I love you! よ」
「は?」
思いもかけなくて、訊き返す。
「正確にはI like youなんだけど、日本人ってあんまり愛してる、って言葉は使わないから、好きだったよ、って言うのは、愛してる、と同義語。だけど、別れ際だから過去形。見送るだけしかできないから、言えなかったんじゃないの? あんたが島に帰るってわかってるから、あんたの負担にならないように、あんたが知らない日本語で言って……。まー、なんて、奥ゆかしい女の子なの!」
なぜか、彼女はやたらと盛り上がっている。悲恋だわ、とか、純愛ね、だとか言って……。
それを言ったのは、シロウなのだが……。
(ん? いや、待て……。それを言ったのは、シロウだ。あの時、オレに、その言葉を言った……)
鼓動が乱れてくる。
(シロウはあの時、オレに、そんなことを……?)
うれしくなって立ち上がろうとして気づく。
(あの時、シロウは、強制送還されることを知っていて……)
オレに謝って、オレが好きだったと言って……。
胸が痛く、苦しくなってきた。
ああ、そうだ。
シロウはオレがからかっていると知っていたのだ。
(なのに、強制送還される間際、好きになってしまったことを謝って……)
あの時の自分を殺してやりたい。
オレは、なんて人でなしだ。
シロウの気持ちを踏み躙り、シロウを深く傷つけ……。
そんなことにも気づかず、謝りたいと日本にまで押しかけ、彼を島へ連れ戻し……。
オレが彼にしたことは……。
(こんなもの、謝ったところで済まされる話じゃないっ!)
焙煎機の掃除を終えたシロウが焙煎小屋から出てくる。
(オレは……)
その姿を見ていられず、船小屋へ向かう。
「あら? アーチャー? どうしたのよ?」
「網を……、直さなければならない」
「あら、そう」
彼女はそれ以上引き留めなかった。
(今さら、オレが何を言えるわけもない……)
だが、こんなにも、シロウの傍にいたい。
もう以前のようにはいかないと知っている。
あの時、シロウがオレを好きだと言ってくれたのだとしても、今はもう、そんな気持ちもさらさらないだろう。
オレは士郎をひどく傷つけてしまったのだから……。
「アーチャー、網、そっち持て、って、アーチャーっ?」
ぐら、と身体が傾く。マズいと思った時には既に身体が浮いていた。
(しまった……、ぼんやりしていた……)
漁の最中、海に落ちた。
情けない……。
「アーチャー、何やってんだよ?」
「ああ、まあ……」
呆れ顔のサグに答える。
「ちょっと……、泳ぎたくなっただけだ」
ムッとして、負け惜しみを言っておいた。
苦笑交じりに手を引いてくれるサグに掴まり、船に上がる。
「顔色、悪いぞー」
シャツを絞っていると、サグに指摘される。
「また不眠症?」
「いや……」
「あんま、無理すんなよ。お前、顔に出さねーから、みんな気づかねーし」
サグは網を手繰りながら淡々と言う。
「サグ、オレは島を出た方がいいだろうな……」
「はあ?」
引き上げた網から魚を取っていたサグがオレを見上げる。
「…………許されないことを、したんだ……」
絞ったシャツを広げながら、ぽつり、とこぼす。
「じゃあ、謝ればいいじゃんかよ?」
「そう……簡単なことじゃない……」
「相手は悪魔や化け物じゃないんだぞ、言葉の通じる人間だろうが。許してもらえるまで謝れ」
相手が人間だとしても、そんな簡単なことじゃない。
許されるとは到底思えない。
オレが島にいると、シロウはきっと苦しむはずなんだ。
「アーチャー?」
心配そうに訊くサグには、とりあえず頷いておく。
作品名:Theobroma ――南の島で2 作家名:さやけ