冬の使者きたりなば
ある日の曜日の昼下がり、金の髪の女王候補アンジェリークが地の守護聖ルヴァの執務室を訪れた。
既に試験も後半に差し掛かり、いまやすっかり通い慣れた想い人の執務室の前で、アンジェリークはふわふわの巻き毛を手櫛でさっと整え、小さく深呼吸をしてからノックをした。
「ルヴァ様、アンジェリークです」
声をかけると中からすぐに穏やかな声音が耳に届く。
「あー、アンジェリーク。どうぞお入りなさい」
失礼しますと言ってから扉を開けて、執務室の主へと一礼をする。
初めは全体的にぎこちなかったその一連の動きも、今ではジュリアスにすら褒められるほどしなやかだ。
執務室の主であるルヴァがそんなアンジェリークの姿に目を細め、にっこりと口角を上げた。
「いらっしゃい、アンジェリーク。今日は育成などは行いませんが、どうしましたかー」
そう言いながらルヴァはそそくさとアンジェリークの分のお茶を淹れようと立ち上がる。
その間にアンジェリークは大切そうに抱えていた包みをそっと机の上に置き、中身を取り出した。
「昨日これを大陸の神官さんから頂いたんで、ルヴァ様にと思って持ってきたんです。今エリューシオンの北側で採れているキノコです」
「私に? ……おや、これは」
ルヴァは差し出された黒い塊に視線を落として僅かに目を見開いた。
どうやら彼の好奇心を見事に刺激したらしく、早速手に取り拡大鏡でまじまじと観察をし始めた。
しきりに角度を変え、光に透かし、鼻先を近づけて香りを確かめている。
「うーん……サルトゥス・アダマティカスに良く似ていますねぇ……”森のダイヤモンド”とも呼ばれるとても希少なキノコなんですよー」
希少、の言葉に今度はアンジェリークが目を丸くさせた。
「そうなんですか? 神官さんは『放っておくと木を枯らすからどんどん採って煎じて飲んでいる』って言ってましたけど……」
手にしていたキノコをそっと机に置き、ひとつ頷くルヴァ。
「そう、このキノコはね、寄生した木から栄養を奪って生長するんです。寒冷地に生息する白樺という樹木に寄生するサルノコシカケ科のキノコなんですよ。今では寄生する樹木自体が数を減らしているために、幻のキノコと呼ばれて珍重されているんです。原種のチャーガというキノコはもうほとんど目撃情報がなく、この近縁種のサルトゥス・アダマティカスもまた、近年自生数を減らしていますが……あなたの大陸では生き延びているんですねえ」
アンジェリークが出された緑茶をこくりと飲み込んでいる隙にルヴァは奥の書架へと足を運び、数冊の本を選んで向かいに座った。
その中の一冊を開いてみせる。
「あなたの大陸に、こんな木が生えていませんでしたか?」
指し示された頁を覗いてみれば、真っ白な樹皮が美しい木々の写真が視界に広がった。
その木には見覚えがあるとアンジェリークが口に出す前に、ルヴァが納得したように頷いている。どうやら顔に出ていたらしい。
「チャーガはこの木に寄生するんです。そしてこの木は明るい場所を好むんですが現在ではブナなどの暗い場所を好む樹木にとって代わられて、一代限りで消えていくんです。だからどこの星域でも自生数がめっきり減っていましてね。そんな過酷な状況なのに、このキノコときたら幹に菌核を形成して十年も過ぎると、寄生先の木を枯らすほどの生命力を持つんです」
「なんか踏んだり蹴ったりですね……」
「でしょう? 私としては結果的には自滅していく流れになるのではないかと思うんですけど、こればかりは人間が決められることでもありませんしね。その恩恵にも預かっていますし……」
そして二人の間に沈黙が訪れる。
ルヴァとしてはその沈黙の時間は好ましいものであったが、ふと思いついたことを口にした。
「次の視察の際には私も同行してみたいんですけど、どうですか? アンジェリーク」
少しだけ物思いに囚われていたアンジェリークがはっと顔を上げた。
「えっ? あ、同行していただけるんでしたら、喜んで!」
にこりと頬を上げたアンジェリークに、ルヴァもまた微笑み返す。
「あなたの大陸には白樺林がありそうですから、一度この目で確認してみたいんですよー」
ルヴァに同行をお願いすることは今まで幾度かあったものの、彼のほうからこうして言ってくることはなかったため、アンジェリークは照れ臭い気持ちを隠すように自身の巻き毛を指に巻きつけてごまかす。
「じゃ……じゃあ、予定を空けておいて下さいね!」
ほんのりと赤らんだ頬へとルヴァの視線が一瞬だけじっと注がれて、いつもの穏やかな返事が返される。
「ええ、約束ですよ。ちゃんと空けておきますから、あなたも…………あ、い、いえ、なんでもありません。さてこのキノコをどこにしまっておきましょうかねー」
ルヴァは急に慌ただしく立ち上がり、貰ったキノコを両手に抱えて収納場所をうろうろと探し回る。
アンジェリークに背を向けてうまく隠したつもりが、耳まで赤く染まってしまったのを目撃されていた。
なんとなく気恥ずかしい空気に耐えきれなくなったアンジェリークが、ぎこちなく扉へと足を向けルヴァに頭を下げた。
「あ、じゃああの、わたしはもうこれで……し、失礼しますっ」
「えっ、あの…………もう、……っ」
何かを言いかけて口をつぐんだ間に、アンジェリークはそそくさと去っていった。
閉ざされた扉へ視線を向けたまま、ばくばくと高鳴る胸を押さえてルヴァはその場に立ち尽くす。
(いま……私は、何と言いかけた?)
もう帰っちゃうんですか。
思わずそう言いかけて、咄嗟に口を閉ざした。
(さっきだって……妙なことを口走りそうになってしまうし)
空けておきますから、あなたも他のひとを選ばないで、と。
(彼女は未来の女王の卵で、私は女王にお仕えする守護聖。それなのに……何てみっともない)
茶器を片付けようと手を伸ばして、ぽつりと置かれた湯飲みに目を留めた。
拭われずに残った淡い桃色のリップ跡から視線を逸らせない。
あの柔らかそうな唇から自分の名が紡がれる度に、酷く甘やかな感情に支配されてしまうことを、決して知られてはいけない。
ましてや、先ほどの紅差した頬に触れたいと思ったことなど言語道断だ。
(こんな気持ちに名前などつけてはいけない。試験に支障をきたすような真似なんて……)
抱えた想いに名前をつけてしまったなら、きっともう戻れないであろうことを────彼は誰よりも自覚していた。