青の洞窟
「な・・・君は・・・!?」
凍りついたように立ち尽くしたシャカ。瞳を閉じていたにもかかわらず、目の前に現れた亡霊の正体を悟ったのだろう。可笑しいほどに動揺するシャカを見つめながら、どこか他人ごとのようにも思いながら淡々と語り継ぐ。
「・・・・・・おまえは私を覚えているのかい?シャカ」
それほど顔を合わすこともなかった。ましてや幼子だったシャカが自分を覚えているとは限らなかった。それは万に一つの可能性とも思っていたほどだ。だが、幸いにしてどうやらシャカは顔を覚えていてくれたようだ。戸惑い、混乱した様子を覗かせながら、それでもシャカはずっと願って止まなかった希望を授けてくれたのだった。
「・・・・ジェミニの・・・サガ?・・・・君なの・・か?」
耳に届く懐かしくも遠い、我が名の響き。毀れ出そうになる、積年の思いを募らせた涙をぐっと堪える。
―――誰でもよかった。
シャカでなくても。
だが、その瞬間・・・シャカでなければならない、と思った。
『サガ』
捨て去られたその名の息吹が再び、シャカの口から与えられたのだ。
「―――ああ」
教皇の座を手にしたその時よりも、より濃く深い感動に心を打ち震わせながら、胸に沁みこんで行く余韻に浸る。
「生きて・・・いたのだな・・・いったい貴方は・・・今までどこに居た?いや、何故・・・このようなことを?」
長い睫毛を僅かに震わせてシャカは責めるようでもなく、静かに問いかけてきた。その質問に真正直に答えることができたら、少しは鬱積した汚泥を洗い流すことができるのかもしれない。だが、今は時期尚早なのだと曖昧に言葉を濁すしかなかった。
「生きていた・・・いや、私は生きていたとはいえないのかもしれない」
「どういう意味かね?」
「シャカ。私は逝くことも叶わず、この地に縛られたまま、彷徨っていた。ここがどこなのか、現実なのか・・・朧のままに彷徨い、無為に時を過ごしていた・・・私は聖域の亡霊。」
その言葉の持つ空虚な実態をどれほどシャカは理解できているかはわからない。が、それでもその言葉の持つ意味深さに少なからず、シャカはシャカなりに衝撃を受けた様子であった。
「亡霊・・・」
窓から密やかに差し込む淡い月光を受けるシャカを見ながら、時折、吹く風に運ばれた雲によって途切れる光を哀れむように瞳を細めた。
「すべてがこの儚い光のように、夢まぼろしであったなら。犯した罪の重さを感じる事無く、無に帰することができたなら。私は今をこんな風に・・・亡霊とならずにすんだのだろうな・・・」
独り言のように呟きながら、静かに耳を傾けるシャカを見つめ続けた。
聖闘士として、何一つ恥じることもなく、穢れのない王道を歩み続けてきたバルゴのシャカ。その過去も未来も一点の曇りなきまま、己が信ずる道を勇ましく闊歩していくのだろう。本来ならば、その道を己自身、歩んで行たはずだった。
けれども、運命の歯車は狂い、栄光に満ちた光溢れる道は閉ざされた。実際に己の歩んできた道はどれだけの血に染まっていることか。幾多の命を犠牲にしながら、道なき道を行く獣のように、この先も手を赤く染め行かなければならない。そんな風に辿りついた終の場所に、果たして自らの生命は輝くことなどできるのだろうか。答えは否なのだとわかりきっていた。
そう思うと、目の前に佇む聖闘士に嫉妬心さえ沸き起こり、歪んだ感情が芽生えかけるのだった。
「君が・・・罪を?何を仕出かしたというのか・・・貴方ほどの聖闘士が・・・」
「追々その秘密は明かしたいと思う・・・が、今はおまえが私の信用に値する者なのか判断がつかない。それに・・・その秘密を共有した時点でおまえは・・・・私の罪を背負い込むことになるのだろう」
誰よりも清らかな心を持つと謳われていたはずの自分が、誰よりも濁り汚れた心を持ったのだから、シャカとてヒトの子・・・同じように堕ちてしまうかもしれない。醜い嫉妬から、同じように堕ちてしまえばいいと思う気持ちもあったが、それ以上にシャカには己が歩むことができなかった道をこのまま変わらずに進んで欲しいとも思ったのは事実。
相反する二つの思いが交錯する中で、滔々と流れる河のように静かに時が過ぎていく。
二言三言交わすだけでも有にその何十倍もの沈黙に時間を費やしたから。
シャカは行方不明だった己が目の前に突如現れたという現実を処理するだけで精一杯だったようだ。
「―――時間だ。私は戻る」
夜が明ける前に戻らなければならない。この短い時間の一時は何よりも貴重な生命の水となった。シャカにとって、逢魔ヶ時でしかなかったかもしれなかったが。
「どこへ戻るというのだ、サガ?あなたはどこから来て、どこへ戻るのです!?」
「・・・・同じ罪を背負う勇気があるのならば、後をついてくるがいい。それができぬのなら、このまま再び会う機会が訪れるのを待つがいいだろう・・・」
そう言葉を残し、後にする。
シャカはその場で立ち尽くしたまま、後を追ってくる様子はまったくなかった。