ハルシオンの夜
そのままグラスの半分程を呑みほして、顔を上げた綱吉は、こてりと間抜な音が聞こえてきそうな動作で首を傾げた。常の、強い癖して纏う空気だけは弱々しいものとは違う、ただふわふわとした雰囲気を漂わせている。そうして雲雀を見上げる、琥珀色の瞳は溶けるように潤んでいた。雲雀はその瞳を見て呆れた様に溜息をつけば、それと同時に、ベッドの上には静寂が降って来た。
「ウィスキーの由来を、君は知っているかい?」
酒を呑むごとに二人の間で濃度を増す様な沈黙に、綱吉が耐えきれなくなって来た頃、驚く事に雲雀が、唐突に口を開いた。
雲雀は普段、なかなか口を開かない。別段無口という訳ではないが、彼は雑談の類を嫌い、必要以上に口を開く事はしない。雲雀は綱吉の嫌っている、何処か物悲しくなるような静けさを愛し、それを楽しむ術を知っている人間であった。
その雲雀の、静寂を割るような突然の問いかけに、綱吉は二度、ゆっくりと瞬いた。だが質問の意味が脳に染み込む前に、刺すような視線で持って答えを促された綱吉は、反射の勢いで、わかりませんと答える。
「だろうね。君は、知っていても尚、できるような皮肉な人間じゃないだろう」
雲雀は、先程綱吉に渡されたグラスを、綱吉の瞳の高さに掲げた。サイドテーブルの上のライトの淡い光が、グラスの中の琥珀色に色づいて、綱吉の顔に反射している。
「ウィスキーはね、命の水と言うんだ」
綱吉の喉がひゅっと音を立てた。だが雲雀は無視して話を続ける。
「不老不死の力があるとも言われていたんだ、つまり――生きる為の酒なんだよ」
無意識のうちなのか、手の筋が浮き出る程の強い力で握られていた綱吉のグラスを、雲雀がそっと奪った。
瞳を揺らした綱吉を、雲雀は刺す様な、まるで戦う時の視線だけで制す。
そして震えてこそいないが、脅えきった瞳で雲雀を見つめる綱吉から目を離さずに、綱吉のグラスに口を付けた。
「……あっ」
小さく上がった声も雲雀は無視して、舐めるように呑んだ綱吉のグラスを、雲雀は上に掲げる。そのままグラスを思い切り床に叩きつけ、同時に己のグラスの中身を、綱吉の頭にぶちまけた。
ガシャン
大理石に叩きつけられたグラスは、硬質な音を響かせながら無残に砕け散り、僅かに残っていた琥珀の液体が床を汚した。もうひとつのグラスの中身は、綱吉の琥珀色の髪を、ますます濃い、とろけた飴の様な色にして、髪や顔を伝いながらシーツに落ちていく。
響いた硬質の音と、頭から降り注いだ冷たい液体に驚いたのか、綱吉は瞬きすらも忘れたように固まっていた。
雲雀はそんな綱吉の前髪を掴むと、そのままベッドに押しつけるように倒した。
雲雀の分のウィスキーが入っていたグラスも投げられたのか、遠くで再び割れた音が響いたのを、綱吉の耳が拾う。リボーンが用意し高いグラスだったのに……と、こんな状況でも妙に冷え切っている、綱吉の中の一部分が思った。
焦点が合わずに天井を見つめていた綱吉だが、前髪を掴まれたまま、二、三度後頭部をベッドに叩きつけられ、髪を引かれた。その痛みに顔を顰めて漸く、己に覆いかぶさる、鼻がぶつかりそうなほどの距離に雲雀の顔がある事に気が付いた。
「君が何を考えているのかは知らないけど、その酒をこんなふうに使うのは、とても失礼なことだと思うよ」
一言一言頭に染み込ませるように、綱吉の頭をベッドに押しつけながら、雲雀は言葉を発する。その声は普段どおりに穏やかなものだが、鼻が付きそうなほどの距離にある雲雀の瞳は怒りに満ちていた。
「いいか、ツナ。ボスになったからには、お前はどんなに気心の知れた奴が相手だって気を抜いちゃいけねえ。たとえそれがディーノでも、部下であっても、だ」
家庭教師の言葉が不意に頭に過ぎる。ぼんやりと思い返していると、何も答えず、焦点も曖昧な綱吉に嫌気がさしたのか、雲雀はねえ! と言いながら、より強く、綱吉の頭をベッドに押しつけた。
「毒なんか盛られた時には、裏切られたって気付いた時は既にこの世に居ねえって場合だって考えられる」
髪を引かれる、頭を押しつけられる痛みに顔をしかめて、漸く雲雀の瞳を真っ直ぐに見た。
「まさか赤ん坊が、君にトリアゾラムとウィスキーの組み合わせを教えていない筈がないだろう?」
いつも冷静な雲雀が、歯をむき出さん勢いで、怒っている。勿論そのような醜態をさらす事は有り得ないが、彼の瞳の色が、痛い程に感じる気配が、雲雀が滅多にない強い怒りを湛えている事を教えた。
「毒だって皆が皆即効性で死んじまうってわけでもねえ。ゆっくりと死に向かうのもあれば、殺すとまではいかなくても、何らかの障害を与えるのが目的ってのもある」
綱吉にはない、漆黒の瞳に滲む強い怒気に、心の何処かが冷えて来る。何かを返さなければならないと思うのに、酒の為に思考は散漫としていてまとまらない。
「毒はどれもわかりやすく毒な訳じゃねえ。普通に使えば薬になるもんだって、使い方を誤れば毒にもなるんだ。例えばトリアゾラム」
「トリアゾラムと酒は、一緒に摂取すると酩酊感が強まり、副作用の効果も強まる。呼吸抑制の効果もある」
綱吉は、記憶に沈んでいた、リボーンの言葉をそのまま繰り返した。
その言葉に、近すぎる位置にあった雲雀の瞳が僅かに揺れる。こんな風に感情を露わにして、己の揺れまで感じさせるなんて、まるで雲雀らしくない。
雲雀から微かに漂うアルコールの匂いに鼻をひくつかせた綱吉は、この人も酔っているのかな? と酩酊感の中でも手放せない、冷静な部分で考える。そして、そういえばこの人も俺のグラスに口を付けたんだっけ、と思い当たった。
「……知っているならどうして、自ら死に近づく様な真似をするんだい」
先程までの酔いを感じさせぬ、冷たく澄んだ声でしっかりと返答した綱吉に雲雀は、今度は軽蔑の色を強く滲ませている。先程の一瞬の揺れが、まるで嘘のように硬質な声で、綱吉に尋ね来た。
「夜が、長いからです」
抗争の後、一人でも多くを救おうと足掻いていると考えてしまう事があった。
自分にもっと力があれば抗争は避けられたのではないか、誰も死なずに済んだのではないか。
身体がいくら疲弊していても、綱吉の思考は止まない。ベッドに横になって、目を瞑っていたとしても、悩んでいる間に安寧の夜が遠退いて行くのが、綱吉には感じられるのだ。
失った人間や、己を責める思考が溢れて眠れぬ夜。希望があるのかもわからぬ朝を、只管に待ち続ける事も苦痛でしかなかった。逃げる事が出来ればよいのだが、己の犯した結果が今の状況なのだと理解している綱吉には、その選択肢は初めから存在していなかった。
だから眠れぬ宵は、雫のようにグラスの底に燻らせて、月光を溶かしたようなウィスキーで喉の奥に流し込んで飲みこんだ。そうしてしまえば、後は意識を飛ばすように眠る身体が、知らぬ間に夜を飲み込んで、朝を迎え入れてくれると信じていた。
「俺は、壊れる事も逃げる事も出来なくて、孤独でも怖くても夜を受け入れなくちゃいけないんです。どんなにつらくても、逃げずに飲み込んで行かなくちゃいけないんです」