白薔薇の祈り
療養生活が始まってから、三週間ほど経った日のことだった。
あれほど「自分は死ぬのではないか」と危惧していた怪我も順調に回復に向かっており、あと五日もしないうちに歩けるようになるだろうと言われた。嬉しいような、少し寂しいような心地でオレは生返事をする。そういえば、ここしばらく獄寺君にも山本にもリボーンにも会っていない。そろそろ顔を見たいと思うものの、忙しい彼らを思って我が儘を控えていた。
そんな、ある日のこと。ラル・ミルチが初めてオレの病室を訪ねてきた。彼女の顔を見るのもずいぶん久しぶりだった。
「あ、どうも……」
頭を下げて挨拶するも、ラル・ミルチは険しい顔つきでオレを睨むだけだった。具合を聞いてくるわけでもなければ、いつものように殴ったり怒ったりする素振りもない。いつも以上に切迫したその眼光に、オレはごくりと唾を飲み込む。これは、どう見てもただごとではない。真昼の穏やかな陽気に包まれた部屋は一気に緊張感を帯び、オレと彼女の間に挟まれた空気はちりちりと音をたてて散った。
「ど、どうかしましたか?」
「明日」
小さくため息をついて、彼女は続けた。
「敵のアジトに乗り込む」
「えっ」
突然の決断にオレは動揺した。そんな話は全く聞いていない。ついに修行だなんて言っていられない状況に追い込まれたのか。オレは身を乗り出して続きを迫った。
「あの、その、作戦を詳しく……」
「お前はいい」
沈黙が流れた。音のない空間を、ふたつの視線が交錯する。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。発言を促すようにラル・ミルチの顔を見ると、彼女は眉間に皺を寄せた。
「そんな状態で来られても足手まといなだけだ。お前を抜いたメンバーで行く」
「なッ……冗談じゃないですよ! 一人だけここで呑気に寝てろなんて」
「来たければ好きにしろ。オレは知らない。勝手に死ね」
「……そんな……」
「沢田。お前は確かに仲間思いだが、自分の立場をまるで分かっていない。いいか、お前はボンゴレ十代目だ。お前の代わりは誰もいないということを、よく覚えておけ。なんのために守護者が六人もいる? ここで無駄死にされる方が困るんだ」
「…………」
「勿論、ここが絶対に安全だという保障はどこにもない。だから自分の命くらいは自分で守れ。オレが言いたいのはそれだけだ。じゃあな」
ラル・ミルチは消沈するオレに一瞥を投げると、颯爽と踵を返した。ドアの閉まる無機質な音が耳に届く。この部屋を去る瞬間の彼女の顔は見なかったけれど、きっと侮蔑でも同情でもない、氷のような表情をしていたのだろう。彼女が冷たい人間だとは思わない。けれど、少しばかり普通の人よりも厳しかった。
ずけずけと放たれた言葉がちくりと胸に刺さって取れなかった。彼女は間違ったことは何一つ言っていなかったからこそ、尚更だった。悔しい。自分はなんて無力な人間なんだろう。そう思うと、とにかく悔しくて情けなくて、やり場のない焦燥感に胸元がちりちりと焦げ付いた。
*
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
気がつくと、部屋の中はもうすっかり薄暗くなっていた。今は何時ぐらいだろうか。二、三度まばたきをしてからゆっくり目を開ける。徐々に鮮明になっていく視界の端にぼんやりヒバリさんの姿をとらえて、驚いたオレは反射的に起きあがろうとした。
「痛っ」
まだ完治していない左足に鋭い痛みが走る。思わず顔が歪んだ。
「やあ」
「ヒバリさん」
「元気そうだね。調子はどうだい?」
「……普通です」
「夕飯は?」
「まだいいです」
ベットの脇に立ち、ヒバリさんはじっとオレの目を見た。深く、心の奥深くまで探るみたいに覗きこまれる。オレは慌てて目をそらした。
「どうかしたの」
「何がですか?」
「様子がおかしい」
詰問するような声色だった。思えば目の前のヒバリさんは、もう十年以上もオレと一緒にいるのだ。元々洞察力のある人だし、オレの異変を見抜くことなど訳ないだろう。勘弁してくれと思いながら壁の方に視線をやる。オレは黙って首を横にふった。
今の心境をヒバリさんに話す気にはなれなかった。甘ったれるな、自業自得だと突き放されるのが恐ろしかった。
「別に、そんなことないですよ」
「……ふぅん」
ヒバリさんはそれ以上何も言わなかった。その気遣いがありがたかった。威圧感を与えるでもなく、妙な存在感を醸し出すでもなく、たとえるなら空気のように、ただ傍にいてくれた。それだけでオレはひどく落ち着いた。それは絶対的かつ無償の安堵だった。この人の隣はいつだって心地よかった。
「今、何時ですか」
ヒバリさんの方に向き直って問うと、ヒバリさんは腕時計を見て「八時過ぎ」と答えた。
その光景にオレは違和感を覚える。なんだろう、と再びヒバリさんをまじまじ眺めてオレは気付いた。そうか、時計だ──。十年前の世界ではヒバリさんが腕時計をしているところなんて、一度も見たことがなかった。いつからするようになったのだろう? 時間に縛られるのが嫌いな人だと思っていたのに。
訝るようなオレの視線に気づいたのだろうか。ヒバリさんはふっと表情を綻ばせてオレを見た。
「この時計、君がくれたんだよ」
「え、そうなんですか?」
「懐かしいな……君はいきなり僕を呼び出して、泣きながらこの時計を押しつけてきて。よく見てみたら、明らかに壊れてるんだよ。でも君は『貰ってくれ』って言って引かなかった」
思わず苦笑が漏れた。未来の自分は一体何をやっているのだろう。壊れたからあげるだなんて、傷物を押しつけるみたいで失礼極まりない。それとも、そんな無礼が許されるほど、未来でのオレたちは親密な関係になっているということだろうか。
「すみません。なんか、変なものあげちゃったみたいで」
「……いや。ちゃんと修理に出して使ってたよ。今もこうして使ってる」
「そんな。捨てちゃって良かったのに」
緩慢に首を横に振る。中々気に入ってるんだ、と、ため息まじりにつぶやいた声色は少しだけ掠れていた。
「君が僕に物をくれたのは、後にも先にもあの一回きりだった」
左手首の腕時計を眺めながらヒバリさんはつぶやいた。
ドクン、と心臓が一度大きく跳ねた。ヒバリさんは静かに口を閉じて目を伏せる。
オレはヒバリさんの顔を覗きこもうとしたが、それを嫌がるように彼はさっと顔をそむけた。声をかけようとまごつくけれど、上手い言葉が見つからない。そんなオレに気付かない振りをして、ヒバリさんは「おやすみ」とだけ言った。そうして足早に部屋を出て行ってしまった。