白薔薇の祈り
真夜中、誰かに名前を呼ばれたような気がして目が覚めた。
どんな夢かは覚えていない。気づいた時には夢の跡は綺麗にかき消えて、ろうそくの炎を消したあとに残る煙のように漠然と、幸福感だけがみちていた。夢を見たのは久しぶりだった。
現実と夢のはざまでゆらいでいると、ふと、清潔な香りが鼻をくすぐった。おそるおそる目を開ける。すぐ隣にはヒバリさんの秀麗な顔があった。いつの間にここへ来たんだろう。ヒバリさんがこんな時間まで起きているなんて珍しい。慌てて上半身を起こそうとしたけれど、寝ざめの身体は思い通りに動かなかった。
やあ。ヒバリさんの低い声が心地よく耳に響いてきた。まるで夢の続きを見ているような気分だった。
「ヒバリさん」
「起こしちゃったね」
「まだ起きてたんですか?」
「君こそ」
「オレはさっきまで寝てましたよ」
「それは邪魔したね」
悪びれる素振りもなくそう言うとヒバリさんは小さく微笑んでみせた。それはとても穏やかで、けれどどこか哀しそうな笑顔だった。
「……この会話も懐かしいな」
「会話?」
「いつも、この時間になると思い出すよ。最後に君と話した時のこと」
そっと、つめたい指先が髪を撫でた。オレは目線を動かし、その手の向こうにある時計を見た。時計の針は午前二時をさして、暗闇の中にぼんやり浮かび上がっていた。再び視線をヒバリさんに戻す。
「十年後の君と話をした。ちょうどこのくらいの時間に、君の部屋で」
「オレと……」
「君は僕に何かを言いかけた。でも僕は話の途中で部屋を出た。君は最後に何を伝えたかったんだろう? ちゃんと聞いてあげればよかった」
「ヒバリさん」
「たまには優しくしてあげればよかった。そうする機会はいくらでもあったのにしなかった。もっと素直になればよかった」
髪を梳いていた指先に力がこもる。絡めた指の切実さが、この人の葛藤の証だった。未来で二人の間に何があったのか、オレは知らない。けれど、ヒバリさんの抱えている強烈な後悔と自責の念だけははっきりと、痛いほどに伝わってきた。ヒバリさんをここまで追い込んだのが十年後の自分だと思うと、嬉しいような悲しいような苛立たしいような複雑な心境だった。
「来てくれて、嬉しい」
「え?」
「待ってたよ。君はまた会いに来ると言っていたから」
「オレが……?」
「君のことを頼まれた。未来の君に」
ヒバリさんと視線が交わる。こうして至近距離で見てみると、ヒバリさんの顔色があまりよくないことに気がついた。途端、オレはたまらなく心配になった。ヒバリさん、夜はちゃんと眠れているんだろうか。一人で傷を抱え込むあまり、身体が心に負けてしまっていたりはしないか?
「僕はとうとう最後まで君に何もしてあげられなかった。だからせめて、君の最後の頼みだけは果たしたいと思った。死んでもね」
「ヒバリさん」
「助けてあげる。僕が君の力になるよ」
「…………」
「……どうして泣くの……?」
「ヒバリさ、ん」
かすれた声でつぶやくと、涙でぐしゃぐしゃになった顔に優しい口づけがふってきた。何度も何度も、角度をかえて唇に柔らかいそれが押し当てられ、その切れ切れに嗚咽が漏れた。オレは添い寝をせがむようにヒバリさんの腕をぐいとひいて、ヒバリさんをベッドの中に引き込んだ。ぎゅう、と強い力で抱きしめられる。火傷しそうに熱い腕だった。
おそらく自分はあの日の夜に、一生分の幸福を使い果たしてしまったに違いない。身も心も魂さえ、焼けこげてしまいそうな夜だった。