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Theobroma ――南の島で5

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 何も言えない、何も言ってくれない。
 ほんとは泣きたかったけど、我慢した。
 恐くて仕方がなかった。手はまだ震えているし、膝も震えて、歩くのもちょっと厳しい。
(だけど、泣くのは……)
 アーチャーに縋って、訴えたあの子と同じだと思う。
 同じだなんて思われたくない。
 やせ我慢だと言われようと、バカバカしいって思われようと、泣くのはダメだ。
 歯を噛み締めすぎて顎がだるい。
 何も言葉を交わさないままの密閉空間は、呼吸すらしづらくなる。
 エレベーターが止まったことにも気づかなくて、腕を引かれてつんのめりながらアーチャーに続く。
 振り向くことのない顔、広い背中を見ているのが辛くて下を向いた。
 ホテルの廊下にはアーチャーの規則正しい足音と、俺のたどたどしい足音が響く。
 立ち止まったアーチャーは扉の前に立って、鍵を開け、俺を部屋に押し込んだ。
 押されて、よろめいて、壁に当たって、どうにか膝に手をついて、倒れ込むことはなかった。
 膝がまだ震えてる。
 あの人たちはなんだったんだろう?
 俺を捕まえて……、誘拐?
 でも、俺、何もお金になるような物も持ってないし、親が資産家ならメリットあるだろうけど、親もいないし親戚もいないのに……。
 何が起こったか、まだよくわからない。屈めた身体を起こし、冷たい汗がたくさん出てきて顎を伝うから手の甲で拭った。
「何をしているんだっ!」
 いきなりの大声に、びく、と身体が跳ねた。
「え……」
 振り向くと、アーチャーが怒っている。
(俺、またアーチャーを怒らせてる……)
「サグから電話が入ったのが四時過ぎだった。今、何時だ!」
「え、っと、時計を、持ってないから、ちょっと、わかんな――」
「七時だ!」
「あ、そ、そう、なんだ」
「何をしていた」
 アーチャーの声が低くなった。こんな声、聞いたことない。
「シロウ、何をしていたんだ」
 重ねて、詰問を受ける。
 何をしていたと訊かれても、ホテルの近くでぼんやりしていたとしかいいようがない。
 何もしていなかった。
 朝を待って、定期船が動き出したら島に帰ろうと思って……。
「サグがシロウを一人で残したからと、船から連絡を寄越して、待てど暮らせど、シロウがホテルに来ないから、」
「だって、」
「なんだ!」
 怒りながら訊くのって、ずるいと思う。そんなふうに怒鳴られたら、何も言えなくなる。
「何か理由があるんだろう、言ってみろ」
 そんな威圧してきて、言いたいことが、言えると思ってるのか?
「シロウ、すぐにここに来なかった理由は、なんだ」
 なんで俺、怒られてるんだ?
 サグは、納得できないなら殴れって言ってたけど、殴る前に取り押さえられるよ、ぜったい。
「……ない。遅くなって、悪かったよ」
 やけくそで答えた。
 何を言っても許してくれない気がしたし、もう早く解放されたい。こんな、問い詰められるのとか、好きじゃないんだ。
「なん……だ、その言い方……」
 アーチャーの顔を見られなくて、逸らそうとした頬に鋭い痛みが走った。
 耳鳴りがする。風船が破裂したような音がしたと思った。
「ここは、日本じゃない! そんなふうにフラフラしていているシロウを狙っている奴など山ほどいるんだぞ! それをわかって――」
 ドンドン、と扉を叩く音とともに、アーチャーを呼ぶ声がする。あの子だ。
「ああっ! くそ!」
 アーチャーは、扉を開けて応対し、
「ここから出るなよ、いいな!」
 言い置いて出ていった。
 頬がヒリヒリする。
 膝がガクガクして、へたりこんでしまった。
 俺、ビンタされた?
 なんで?
 謝ったじゃないか、悪かったって、そりゃ、態度は悪かったかもしれないけど、待たせてしまったことは悪いと思ったから、謝ったのに、なんで?
 腹が立った。
 同時に悲しくなってきた。
 アーチャーが出ていった扉を見上げて、飛びついて鍵をかけ、チェーンもかけた。
 出るなって言ったんだ、じゃあ出ない。それから、部屋にも入れない。
 アーチャーは鍵を持ってるけど、チェーンは外せない。工具を持ってこないと無理だし、自分の家ならともかく、ホテルのドアチェーンを切るなんて、勝手にはできないはずだ。
『は……』
 壁にもたれて、ため息をついた。
『何やってんだろ、俺……』
 アーチャーに会って、俺は何を言うつもりだったんだろう。
 それを考えて、まごまごしているうちに、日が暮れてしまったんだ。
 会いたかったのに、声が聞きたかったのに、これじゃアーチャーを怒らせるために来たみたいだ。
 サグは言いたいことを言えばいいって言ったけど、何も言えなかったし、話し合うこともできなかった。
『話し合うことなんて、アーチャーにはないのか……』
 俺の思うことを、いいことも嫌なことも言ってくれって、アーチャーは言ったのに、言わせてくれない。あれは、島限定のことだったのか。ここじゃ、それはしちゃいけないことだったのか。
 島に帰って、俺はアーチャーの家で、いつか帰るだろうアーチャーを待っていればいいだけなのか……。
(それがアーチャーの望んでいることなんだろうな……)
 たぶん、ここは、アーチャーのプライベートゾーンだ。誰にも侵されたくない居場所なんだろう。
 アーチャーは島の人だけど、島の外にも居場所を持ってる。島から出るつもりはないけど、時々島の外に出て、気分転換を図るとか、そういう感じなのかもしれない。
 あの時、先に帰ってくれって言われたし、おとなしく言うことをきいていればよかった。
 ここは、俺に入りこまれたくない場所だったんだろう……。
『は……、いたた……』
 履き慣れない革靴を一日中履いていたせいで、靴擦れしてしまった。
 なんだか疲れた。
『慣れないこと、するもんじゃないな……』
 膝を引き寄せて顎を載せる。眠ってしまえばすぐ朝になると思うのに、眠気は全然来なかった。



***

「はあ? なんだと!」
 サグからの電話は、定期船からだった。
 あまりに突拍子もない内容に、大声で訊き返してしまう。
 顔なじみのフロント係から、声を抑えろと身振りで示唆されてしまった。
「置いてっちまったんだ。頼んだぞ」
「な、何をしているんだ! 連れて来たのなら、責任を持って連れて帰るのが――」
「それ、お前にそっくり返すわ」
「な……に?」
「お前、シロウの気持ち、考えたことあるのかよ」
「は? な、んだ、急に」
「あるのかないのか、どっちだよ」
「あるに決まっているだろう、当たり前だ!」
「へー、それで、んなことやってられんだな……」
「な……、どういう、意味だ」
「まあ、シロウに訊けよ。じゃな」
 プツ、と電話は切れてしまった。
 サグの声は珍しく怒りを含んでいた。
 あいつがオレに怒るときは、オレがどうしようもないときだ。
(何がどうしようもないんだ)
 オレはきちんとシロウに言った。世話になった人だからと。
(シロウはわかったと言って笑った、だから、オレは……)
 まったく、サグは何を怒っているのか、あいつは何が言いたいんだ。
作品名:Theobroma ――南の島で5 作家名:さやけ