EXIT
「女性と子供ひとりずつです。」 ボッシュが、淡々とした調子で答えながら、降りてきたレンジャーの腰にセットされていたワイアの金具をはずすのを手早く手伝った。
「よし、そっちのふたりは、先に俺たちといっしょに上がる。俺たちが上に着いた後、もう一度、ここに戻ってくる時間がねぇ。2本予備のワイアを残していくから、お前らふたりは、ワイアを装着して待機ののち、合図しろ。ワイアを巻き上げて、上から引っぱってやる。わかったな。」
「了解。」 リュウは、ぐずぐずせずに、壁際にすくんでいる少女と母親に手を差し出し、横穴の口まで導いた。もうひとりの重装備のレンジャーが、母親に近づき、腰のベルトに、自分の腰のところにつけていたワイアの金具をしっかりと留め付ける。
「お子さんもわれわれと同時に上がりますから、心配しないで。」 母親は何か小さな声でつぶやいているが、聞こえない。
リュウは、少女の手をひいてヒッグズのところへ連れて行き、幅広のナイロンの帯に少女の腕を通して、手早く命綱をとりつけた。
「いいかい。しっかりとつかまってるんだよ。目を閉じていたら、すぐ上につくからね。」
「なんだ、ほそっこいおちびだな。俺の肩に乗っかっていくか?」 ヒッグスは、大きな声で笑うと、少女の命綱にとりつけたワイアがゆるんでいないか、ひっぱって確かめると、言葉の通り、胸のところへと抱き上げた。
少女は、ヒッグスのごつごつした重装備の上衣をぎゅっとつかんだまま、背中越しに、リュウのほうを見ている。
そのものいわぬ黒い瞳に、リュウは、右手を上げて、応じた。
「そっちは、どうだ?」
「準備完了。いつでも、上がれます。」
「おい、お前ら、予備のワイアは、受け取ったな? 俺たちが上がったら、すぐに合図しろ。あまり時間がない、意味はわかるな?」
「了解。」
「すぐに来い、先に上で待ってるぞ。あと、あのふざけた通信、かなり効いてたぜ。」
ヒッグスは陽気に笑い、元通りゴーグルをつけると、少女を抱き上げたまま、横穴の間際ぎりぎりまで歩いたあと、腰にとりつけたワイアに手をかけて、びんびん、と引っ張った。
ヒッグスの厚い靴底が、岩を蹴り、底の見えない縦穴へと飛び出したかと思うと、少女とふたりぶんの体重を支えたワイアがピンと張りつめ、そのまま、上へと勢いよく引き上げられていった。
母親ともうひとりのレンジャーも、合図を送り、すぐにその後を追っていった。
「ふう。」 と、親子を見送ったリュウが、息を吐く。ボッシュが、それを見咎める。
「気をゆるめてる暇なんてあるかよ。いつ爆発してもおかしくないんだぜ? わかってんのか。」
「あぁ、わかってる。」
「わかってんのなら、準備しろよ。」 ヒッグスから渡されたワイアの一本を、リュウに向かって投げつけるように、渡した。
はるか上部とつながったワイアは、振り子のように弧を描いて、リュウの手に届いた。
その先についた曲がった形の金具を、腰のベルトにひっかけて、リュウも、横穴の入り口に立つボッシュの隣に並んだ。
ボッシュは、親子をつれて上がっていったヒッグスたちの姿を、見上げている。
その横で、リュウは、縦穴に背を向け、かかとをがけっぷちに置いて、顔をボッシュのほうへ向けた。
「ボッシュ、俺さ、」
「なんだよ。」
「ボッシュのこと、見間違えていた気がする。」
「……。」
「ボッシュは、上層街から来たエリートって、基地に来る前から、ずいぶん噂になってた。
ひょっとしたら、下層や最下層にすむ俺たちのことなんて、なんとも思ってないんじゃないか、
たとえ、俺たち下層の人間が窮地に陥っていても、その価値がなければ、手を差し伸べたり、助けたりしないんじゃないか、って、おもってたんだ。一部のファーストたちみたいに。」
「……それで?」
「うん。だから、ゴメン。なんにも確かめないうちに、噂で、ボッシュを決め付けてたんだ。
ボッシュは、ずっと、あの親子を助けてくれてた。それ見てて、俺、間違えてたと思った。」
「……それは、間違いじゃない。」
「え?」
「お前に、価値がないのなら、俺は、迷わず、置いていくぜ?」
暗い天井を見上げていたボッシュが、リュウの方を振り向くと、短く切り取られた金の髪が高い頬骨を打って、乱れた。
リュウを見つめる、その目つきは、くるくるといろんな色合いを秘めていた。
軽蔑し、信頼し、疑い、協調し、反発し、期待とあきらめに揺れ、失望し、嘲笑い、また、信じようとする。
あの少女と同じ、そんな、目つきだった。
誰もが夢見る高い場所に生まれ、何不自由のない生活を送り、すべてに満ち足りたエリート――それまで会ったことのないハイディーに、そんな幻想を持っていた。
そんな完全な場所は、何処にもないと、気付かないで、揶揄していれば、そのほうが、楽だったんだ。
「――わかった。置いてかれないようにするよ。」 リュウは、破顔した。
手の中のワイアが、上から到着の合図を伝えてくる。
「その言葉、忘れんなよ。」 ボッシュが、自分の腰に取り付けたワイアを二回引き、足場を強く蹴って、風の吹き上げる虚空へと飛び出す。
「あぁ。いつか、追いつく、胸を張って、ちゃんと並べるように。」 聞こえないと知りながらそう言って、リュウは、先に引き上げられるパートナーを見送り、背中から、底の見えない空間へと身を躍らせた。
ワイアにつながれたリュウの体は、落ちるのを待たずに、ぐんぐんと引き上げられた。ワイアはおそらく、下層街のエレベータ乗り場に置いた巻き上げ機で引き上げているのだろう、変わることのない速度で、リュウは上昇していた。
降りてきたときに、細い窓越しに見送った岩肌のだいだい色のライトが、降りてきたときよりも速いスピードで、リュウの前を次々と、下へ流れていく。
命綱のワイアをしっかりと握りながら、そのライト一つのゆくえを目で追って、リュウは、ぶら下がった足の下に広がる、底のない黒を見た。
その闇のはるか下に、不気味な沈黙がうずくまっている。
下は最下層から、上は中層街の底にまで届く、深さ900メートルにもおよぶ、この長いエレベータの縦穴を、むき出しで上昇するリュウは、その底から、順調に遠ざかりつつあった。
けれど、そのとき、ガクン、と、どこかで機械が作動する音が、響く。
目の前で、リュウがつかまっているワイアよりもはるかに太く、頑丈に寄り合わされた2本の金属線が、ビィィーンと、鳴っている。
そのうちの一本が上へ、もう一本が下へとすばやく動いているのに気付き、リュウはあわてて、頭上を見上げた。
リュウよりもだいぶん先に上がっていった相棒のダークグリーンの色は、もうどこにも見えない。
その代わりに、赤黒い闇の中に、ぽっかりと切り取られたような明るい四角が、小さく見え、その窓を横切るように、いくつかの黒い人影もちらついている。
「リュウ!」
遠くから、濡れた岩壁に何度も跳ね返った声が、届く。
引きしぼられた弦に近い音で鳴りながら、風を切る速度で動いている太い2本の金属線が、停止していたはずのエレベータにつながっていることに、リュウはとうに気付いていた。
だが、上へ? 下へか?