19 夢の一夜~今宵おまえと・・・
そして公演当日、開演20分前。
ユリウスは開け放たれた劇場の入り口に立ち、ドイツの様式とは違った華やかさに煌く装飾の壁や天井を見上げていた。
ーーーやめておけ、誰かの陰謀か策略かもしれない...ばかな、党員と言っても下っ端の駆け出しのボクを誰がそんな?もしなにか少しでも変に思ったら抜け出せばいい。
ユリウスはさんざん迷った挙句、前日に管理人のおばさんにミーチャの子守をお願いしに行っていた。
当日はオッパイをたっぷりと飲ませ寝入ったところをおばさんに預け、例のドレスに着替え身支度を整える。一緒にあった紅もうっすらと唇にのせ鏡をのぞくが、我ながらの大胆不敵と言える決断と久しぶりに華やかな世界に足を踏み入れることへの緊張で、彼女に着飾った自分の姿を楽しむ余裕はなかった。
ユリウスは、自分がどれだけ無茶をしているのかはわかっていた。しかし「こうもり」は、レーゲンスブルグで初めて迎えた大晦日にマリア・バルバラに連れられて観た初めての本格的オペレッタの演目で思い出深く、なにより懐かしいドイツ語のオペレッタという時点で彼女の心は決まっていたのかもしれない。
指定された桟敷スペースは、皇族や貴族が使う高見のそことは違い一階の座席の両側に一段高く設けられ、十数人は入れそうな部屋だった。
---おかしいな・・・。
じきに開演というのに、その部屋にはまだユリウス一人しか入っていなかったのだ。
---やはり、なにかあるのだろうか・・・。
不安とともに、あどけない息子の顔が脳裏に浮かぶ。
---ボクに何かあったらミーチャは...。
都合よく追いやっていた不安の核心は、一度頭をもたげ出すとどんどん心を支配していく。
---ダメだ、やっぱり!
舞台に背を向け、ユリウスが部屋を出かけたその時...。
「あ、なたは・・・」
開かれたままの入り口から入ってきた上背のあるその男~~黒い瞳を隠すように目深に被ったボルサリーノハット、軍服ではない洗練されたフォーマルスーツ姿~~
あの日、アレクセイが刑を言い渡された広場で、自分とアレクセイ達革命家の魂を鼻で嘲笑った忌々しい黒髪の男だった。
「どういうこと?ぼ...私をはめたの⁉もしかして今までの荷物も・・・」
一瞬うろたえた表情を引き締めるように、ユリウスはユスーポフ侯に強い視線を向けた。
---この目だ...あの日、この私の心を捉えた燃えるような碧い瞳、眩い金の髪。
「・・・荷物?なんのことだ?私はここで人と会うことになっていただけだ。都合でキャンセルとなった故、せっかくの演目を純粋に楽しむだけのことだが?」
---思った通り、よく似合っているな...。やはり育ちは悪くないと見える。
席に入り彼女の姿を捉えたとき、レオニードは表情こそ変えなかったものの彼女の持って生まれた輝きに思わず息をのんだ。
愚かな革命家などを愛し子までなした浅はかな娘を、どうしてここまで気にかけるのか・・・しかし今また、彼はそこから目を背ける。
あの日からずっとそうしてきたように。
「どのような事情でおまえがこのような場にいるのかは知ったことではないが...私は今日はほぼ丸腰だ。一時休戦してボリシェビキの女闘士殿とオペレッタを楽しむ酔狂も悪くはないと思っているが...?」
「・・・」
ユリウスがなにか言いかけたとき、鐘が鳴り幕は上がっていったのだった。
作品名:19 夢の一夜~今宵おまえと・・・ 作家名:orangelatte