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49 すずらんの微笑み

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「眠ったよ」

そっと寝室の扉を閉めて出ると、片づけを終えたユリウスがグラスにvodkaを満たし、自分用にはお茶を入れていた。

「ありがとう。ふふ、今夜は一晩中ファーターと遊ぶなんて言ってたんだよ?」

「う・・・それは困る・・・かな?」

「ボクも・・・」

頬を赤らめ俯きながら小さく呟くユリウスが、アレクセイにはたまらなく眩しく愛しかった。

6年前失った人としての生活・・・暖かい住まい、一人じゃない食事、家族団らん、安らぎのひととき、愛する人の温もり・・・。焦がれて焦がれて・・・焦がれすぎて己を見失う前にいったん諦めつくしたそれらを、今こうしてとり戻せたことが夢のようであり、大勢の犠牲によってとり戻せたそれらの尊さを噛みしめる。
―ちっぽけだったオレの命・・・これからは生きるということを、人生におけるすべてのことを何一つ無駄にはできない。

「ア、レクセイ・・・?」

遠くを見つめるように身動きを止めた夫の様子に、長い抑留生活の痛みを見た気がしたユリウスは、ただ明るく微笑みかけることしかできない。

「はい!このvodkaね、ジーナさんのキープなの。たまーにね、うちでご飯食べながら飲んでいくこともあって。あ、無断じゃないよ?あなたが帰ったら飲ませてあげてねって言われてたから・・・」

渡されたグラスを手に、アレクセイとユリウスは暖炉の前に腰を下ろした。
カチン!

「長い間、留守を守ってくれてありがとう」
「無事に帰って来てくれてありがとう」

Vodkaとお茶で、改めて帰還の乾杯をした。

「・・・・・」
「・・・・・」

それぞれの飲み物に口をつけながら、二人で暖炉の火を見るともなく見つめる。焦がれ続けた恋人と見つめ合うでもなく・・・。

―なんか、照れくさい。やっと二人きりになれたのに・・・。

―どうしたらいい?愛し過ぎて・・・いざ二人になると、なんか・・・。

6年ぶりに再会した夫婦は戸惑っていた。そのあまりにも強すぎる想いをどう表せばいいのか・・・。

アレクセイがシベリアにいた6年間、生きていくために必要な最低限の生理的欲求以外の欲求は極力捨て去らなければ精神の安定は保てない状況だった。精神を侵されることは死につながる・・・地獄から脱し家族の元へ帰るというそれだけが心の支えだった。
当然、性欲など感じるどころかその存在自体長く忘れ去っていたのだが、先ほど駅のホームで抱きしめた妻のぬくもり、感触、匂い・・・自身の奥深くに眠っていた熱いものが一気にこみ上げてくるのがわかった。
今こうして寄り添っていても、どうしようもない愛しさに切なくなるほどなのに、想いをうまくコントロールできないもどかしさばかりが募り踏み出せない。

―ガキじゃあるまいし・・・クソ!

アレクセイが最愛の妻への愛情を表すのに戸惑うのには訳があった。
シベリアにいた頃、女囚として送られてきた女たちの悲惨な成れの果てを何度か目の当たりにした。あの地で痛めつけられ心も蝕まれたであろう自分も、もしかしたらユリウスを壊しかねない行為に至るのでは・・・そんなどす黒い不安が、心の片隅に巣くっていたのだ。

ユリウスもまた、夫と離れ幼子を抱えた6年間は、死に物狂いでただ母としてだけ生きてきた。
女を意識することは自身を弱くするとさえ感じ、ミーチャの為にもっと強く、父親の代わりも務めるのだとずっと力んで生きてきたのかもしれない。
―はぁ・・・
愛する夫が帰ってきたからといって、自身はすっかり忘れ去っていたような自分の女の部分をどうやって引き出せばいいのか・・・こうして二人きりになった途端、猛烈な照れくささも押しよせ素直に甘えられない自分がもどかしい。

「あのね・・・」
「あのさ・・・」

同時に声を発した二人は、顔を見合わせ思わず苦笑いする。
―――おまえから先に言えよ。

「ミーチャのベッドね、ジーナさんからいただいたの。それまでは一緒に眠っていたのだけど・・・」
「ああ、さっきミーチャに聞いた。ハハ、周りのすっげー気遣いを感じて照れくさくなっちまったよ・・・。ミーチャ、いい子だな。よく育ててくれたな、ありがとうユリウス」

昔よくそうしたように、アレクセイはユリウスの金色の髪をクシャリとすると、その頭を肩に抱き寄せた。

「一人でよく頑張ったな。辛いことも多かったろう?これからはオレがいる、もう頑張りすぎなくていいからな?ん?」
「・・・うっ・・・アレクセ・・・」

その瞬間、ユリウスの中で6年間ピンと張り詰めていたものが一気に緩み、アレクセイの温かい胸に素直に体を預け声を上げて泣きじゃくった。
アレクセイもしっかりと抱き留め、彼女が泣き止むまで金の髪を、華奢な背中を、その大きな手で撫で続けるのだった。
気丈に踏ん張って生きてきたであろう妻が、なんとも頼りなげに自分に抱かれている。
―何を怖れることが・・・?こんなにも愛している、ただそれだけで・・・。

「愛してる・・・今度こそ離さない。もう一度誓うよ・・・」
「絶対に離れない・・・愛してる・・・」

そっと唇が重ねられる。
何度も優しくついばみながら、唇が離れて見つめ合う度に深く永く・・・熱くお互いを求め合い、翻弄され融けていく。
恋人達を隔てるものは、もう何もなかった・・・。

作品名:49 すずらんの微笑み 作家名:orangelatte