62 ミハイロフ邸にて
「アレクセイは、音楽学校の先輩だったんです。二学年上のヴァイオリン科の上級生で…才能はピカイチだし漢気のある人柄はだれからも慕われてました。ぼくは…5年生の時他所から転校してきて…、初めて彼と会った時、僕は一緒にいた友人を庇って…彼をひっぱたいたんです」
アレクセイとの出会いを思い出して、ユリウスは少しばつの悪そうな顔でクシャっと笑い、小さく舌を出した。
「そんなこんなで…彼との第一印象はお互いに最悪だったと思います。…どうして、彼に惹かれるようになったんだろう…?今となってはもう思い出せないや。気が付いたら彼の姿を目で追いかけていて、どうしようもなく好きになってました。彼が実はドイツ人ではなくてロシア人で…危険な活動をしていると知ったのはそれから間もなくでした。そしてやがて祖国へ帰ってしまうという事も…。ドイツでの音楽学校でヴァイオリンを弾く彼はかりそめの姿で…いくらぼくが彼を想っても…彼の人生にぼくが入り込む余地などこれっぽっちもないのだという事も、ぼくの想いが彼へ届くことなどはないのだという事も分かってました。…それでも彼を恋する気持ちは止められなかった。別れの日は…あまりにも突然やって来ました。彼は誰にもその事を告げずに、…いえ、一人だけ、彼の親友にだけ、どこへ行くかは告げなかったけれど学校を…街を去る事だけを告げて去って行ってしまったんです。ぼくは彼に、アレクセイが乗る汽車の時間を聞いて…無我夢中で彼を追いかけました。会って何をするとか…どうしてほしいとか…そんなことは考えていなかった。…ただ夢中で…彼の乗った列車を馬で追いかけたんです」
ユリウスの瞳が、あの頃の必死で痛々しいぐらいに純粋な恋心を抱いていた少女の自分を回顧するように、一瞬遠くを見つめた。
「まあ、馬で?あなたが?」
「ええ、そうです」
にっこりとユリウスがヴァシリーサに微笑んだ。
「そんなぼくを…必死で向こう見ずなぼくの恋心を…アレクセイは受け入れてくれたんです。彼とミュンヘンのアジトの屋敷で初めて一緒に合奏して…そのあと…恋人として口づけを交わして…。自分を連れていけといったぼくの願いを、彼は受け入れてくれたんです。それで、ぼくの事をアルラウネに…」
ユリウスがそこまで語った時―。
アルラウネという名前を聞いたヴァシリーサの老いた肩がビクンと震えた。
「おばあさま…?」
ヴァシリーサの顔はこわばり、全身が小刻みに震えていた。黒い瞳は極度の興奮で奥底に爛々とした光を帯び、小さな声で何かを呟いている。
― 聞きたくない…聞きたくない…
「あの…あの女の…、あの女の名前を私の前で出さないで…!!」
そう叫ぶと、ヴァシリーサの小さな体はぐらりと重心を失い―、サロンの床へと倒れ落ちた。
「お、おばあさま?―おばあさま!?…誰か!― オークネフ!!」
動揺したユリウスの高い声がサロンの高い天井にこだました。
作品名:62 ミハイロフ邸にて 作家名:orangelatte