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62 ミハイロフ邸にて

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「おばあさまは?」

食堂に侍しているオークネフにユリウスが訊ねる。

「もう大丈夫でございますよ。ただ今日はもう…お休みになられたいようです」

「そう…」

夕食の後、ユリウスは厨房を借りて、野菜スープを拵えた。

トロリーに載せてヴァシリーサの部屋に運ぶ。

― コンコン

「誰です?」

中からヴァシリーサの声がする。

「おばあさま。ユリウスです。先程は…すみませんでした。あの…スープを拵えたので…召し上がって下さい。何も召し上がらないのは…お体に毒です」

ドア越しにユリウスがヴァシリーサに語りかける。

「…」

返事が返って来ないドアの向こう側に、ユリウスが語りかける。

「あのね…。あのね…、おばあさま。さっきは黙っていたけれど。ぼくとアレクセイが学校の先輩後輩の間柄だってきいて…変に思わなかった?女の子のぼくが…カトリックの音楽学校に通っている事を…変に思わなかった?…あのね、ぼくはね、おばあさま。実はね…妾腹の子でね…父親の財産を相続するために母親に…生まれた時から性を偽って…本当は女なのに男として…育てられたんだ。…だから、ぼくは15になるまで本当は女なのに男のふりして、周りの人間全てを騙して生きていたんだ。…ひどいでしょ?…軽蔑した?汚らわしい人間だと…思った?…もちろんそれはぼくの意思じゃないよ。…本当は、そんな事したくなかったんだ。いつも周りに神経を張り巡らせて、女の子だとばれないように細心の注意を払って…。毎日が綱渡りのような日々だった。ぼくにとって…女ということは…誰にも望まれない…こっそりと隠しておくものだったんだ。…そんなぼくの「女」の部分を…アレクセイは認めて「綺麗だ」って…言ってくれた。そして…そんなぼくを…アルラウネは受け入れてくれた。本当の…誰にも望まれなかった女としてのぼくを認めてくれて…「女に戻りなさい」って言ってくれた。それで、女としての嗜みも何も知らないぼくをゼロから女性として色々な事を教えてくれたのは…アルラウネだったんだ。スカートをはいたことも、お化粧をしたことも、髪を結ったこともなかったぼくに、ドレスの着こなし方から歩き方、エスコートのされ方、あらゆる女性としての所作と観念を…何も知らないぼくを馬鹿にすることもなく、辛抱強くゼロから教えてくれたんだ。…だから、アルラウネはぼくにとって…女の子として生まれ変わったぼくにとっては…お姉さんでもあり、お母さんでもあったんだ。そもそも…彼女がアレクセイを連れてドイツに逃げてくれなかったら…ぼくとアレクセイは…出会う事さえできなかった。…ごめんなさい、おばあさま。…黙っていて。ぼくみたいな恥知らずな過去を持つ女…嫌いになったよね。…ぼく、アパートへ帰ります。短い間ですがありがとうございました。命を救ってくださったご恩は…一生忘れません。…お元気でいて下さいね。…夕食のスープ、ここに置いておきますね。…お体に障るから、ちゃんと食べて下さいね」
― じゃあ…。

ドアの向こうの相手に語り終えたユリウスは、トロリーをドアの前に置いて―、ヴァシリーサの居室を後にした。

「ユリウス…」

とぼとぼと廊下を歩くユリウスの背中にかけられた、ヴァシリーサの声に、ユリウスが振り返る。

そこには、部屋から出て来た、胸を押さえた夜着のヴァシリーサが立っていた。

「おばあさま?!」
―お体に…障ります。ベッドに…お部屋に戻って下さい。

思わずユリウスがヴァシリーサに駆け寄り、身体を支えた。

そのユリウスの身体をヴァシリーサが強く強く抱きしめる。

「…おばあ…さま?」

「すまなかった…。あなたに…つらい過去を語らせて…。あなたの大切な人を悪し様に言って…すまなかった。…本当は…分かっていた。彼女のせいではないことは…分かってた。アレクセイの命を救ってくれたことも…分かってた。…だけど、誰かにこの怒りを持って行かないと…耐えられなかった。彼女を恨んで…憎まないと…やっていけなかった。…本当は…」

ユリウスを抱きしめながらヴァシリーサは今までのつらい気持ちを吐き出して、ユリウスの胸の中で慟哭した。

ユリウスの温かな胸は、そんなヴァシリーサの十数年来の苦しみと悲しみと持って行き場のない怒りをゆっくりと優しく溶かしていった。

「…おばあさま。部屋へ…ベッドへ、戻りましょう。それから、スープ、ちょっと冷めちゃったけど召し上がって?」

ユリウスがまだ嗚咽のおさまらないヴァシリーサの小さな肩を優しく摩りながら、部屋へと誘う。

「ユリウス…一緒に…あなたのスープを頂く間、一緒にいてもらえないかえ?…それから、アパートへ帰るなどと…言わないでおくれ。…私があなたを嫌いになるなんて…そんな事あるものですか。…アレクセイが、そしてアルラウネが言った通り、あなたは女性として…外見もそして内面も美しい。たとえあなたにどんな過去があったとしても。そんなあなたを私が嫌いになれる筈がありませんよ。…ユリウスや、ここにいておくれ」

そう言ってヴァシリーサは、ユリウスの手を両手で優しく包み込んだ。

「もちろんです。おばあさまが召し上がる間、ずっとお傍におります。このスープは…温め直してもらいましょう」

ユリウスはスープを召使に託すと、ヴァシリーサの背中を抱いて寝室へと入って行った。

作品名:62 ミハイロフ邸にて 作家名:orangelatte