62 ミハイロフ邸にて
第三章 やさしい音楽
1917年春―
ミハイロフ邸の音楽室で、ユリウスがピアノの前に座っている。
彼女の白い指から紡がれるのは、― ブラームスの抒情的なメロディだった。
まるで春の陽ざしのような―、歌うような優しいメロディが音楽室を満たしていく。
大きな窓から射しこんだ光が彼女の横顔に降り注ぎ、まるで光の欠片を纏ったように長く波うつ彼女の金の髪を輝かせる。
ブラームスのその旋律に陶酔するような彼女の横顔を、彼女の演奏を邪魔しないようそっと音楽室に入って来たアレクセイが、ドアの傍らで見つめていた。
そして彼もまた、妻の弾く歌うような優しいブラームスの旋律にうっとりと身を委ねる。
曲が終わり心地のよい余韻に暫し浸ったあとに、鍵盤から指を上げたユリウスが、ドアの脇で同じく演奏の余韻に身を任せていた夫の姿に気が付く。
「アレクセイ!」
立ち上がって、夫の元へ小走りに近寄る。
「あーー!走るな!!バカた…」
アレクセイが全部を言い終わる前に、ユリウスがアレクセイの大きな胸に飛び込んできた。
久々に触れる妻の温もりを、愛おしむように抱きしめ、輝く金の髪に手を絡め頭を引き寄せ、柔らかな唇を貪る。
「会いたかった…」
口づけのあと離れたユリウスの唇が、微かな呟き声とともにそう動いた。
「俺もだ」
再び髪に、耳朶に、頬に、首筋に、唇を落していく。
作品名:62 ミハイロフ邸にて 作家名:orangelatte