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62 ミハイロフ邸にて

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「だいぶ…大きくなってきたな」

「うん…」

はにかんだ表情でユリウスが目立ってきたお腹に手をやる。

「さっき弾いてたの…ブラームスの間奏曲だろ?…優しい、今日の日だまりみたいないい演奏だった」

「ありがとう…。この子にね、優しい曲を聞かせてあげたいと思ったの…。不思議だね。昔はあまり弾いた事なかった曲なのに…。なぜか無性にこの曲をこの子に聴かせてあげたくなって」

「そうだな…。お前がこの曲弾いてるの聴いたのは…初めてだぜ」

「ふふ…。ぼくが弾いてた曲なんて憶えてるの?」

「憶えてるさ…。全て。…あの時お前が弾いていた曲は全部。お前の弾くピアノの音…ピアノに向かい合ったお前の横顔…顔に影を落とした長いまつ毛、真剣な碧の瞳、時折顔にかかる金の髪…。俺はずっとお前の事を見てたんだ。…だから…全て憶えているんだ」

「そうだったの?」

「ああ…そうさ。俺はあの時お前の手を取る事は叶わないと…そう思っていたから…せめて今こうしてお前と同じ場所で同じ音楽を共有しているこの瞬間を…全て記憶しておこうと…そう思って、お前を見つめて、お前の音楽を聴いてたんだ。…まさか、その後こうやって…ずっとお前と人生を共にするなんてあの時は想像だにしていなかったなぁ」

そう言ってアレクセイは長椅子に並んで腰かけたユリウスの頭を抱き寄せた。
ユリウスもまたあの頃の自分を追憶するように一瞬彼方に視線を漂わせ、アレクセイの肩に頭を預けた。

「アレクセイ…ありがとうね。…ぼくをあなたの人生に一緒に歩むことを…許してくれて」

「何言ってんだよ…。俺こそ…。お前俺について来てから10年ちょい…ずっと苦労の連続だったじゃないか。…それなのに…」

それ以上は言わないで! そういうようにユリウスはアレクセイの口を人差し指でそっと押さえ首を横に振った。

「ぼくは…あのミモザ屋敷の夜から…ずっと…ずっと幸せな夢の中にいるようだったよ。あなたに愛されて、あなたによく似た子供を授かって…そりゃ、あなたがシベリアに流刑になったときは辛くて…泣いたときもあったけど…あなたが生きている…そしてあなたに託された子供がいる…それだけでぼくは未来を見続けて…前を歩くことが出来た。こんな幸せな人生…ないよ。そして今だってこうして…」

ユリウスはそこまで言うと再びそっと自分の大きくなってきたお腹に両手をやった。

「…なんか、もう人生が終わるみたいなこといってるな…俺たち。もうやめようぜ。こんな…人生を回顧するみたいなの。老夫婦の会話じゃあるまいし。…なあ、お腹の子供、男か女か…どっちだと思うか?」

「う~ん。ぼくは…今度は女の子だと思う」

「そうか。だったら…お前によく似た綺麗な子だといいな」

「アレクセイは?どっちだと思う?」
少女のように瞳をキラキラとさせてユリウスはアレクセイに訊ねた。

「俺は…どっちでもいいぜ。ミーチャはエレーナみたいな女の子だといいって言ってたな」

「そっかぁ。…ミーチャ、元気にしてる?…会いたいなぁ」
残してきた息子の事に話題が触れ、ユリウスの表情に憂いがさす。

「ああ。元気にしてるよ。ズボフスキーの家で、ガリーナを助けて、エレーナにも兄貴のように慕われて…仲良くやってるみたいだ。たまに様子を見に行って、お前の事も伝えているから心配するな」
― あ!そうだ。これ、あいつから託されてたんだ。

アレクセイがジャケットのポケットから四つ折りのスケッチブックを切り取ったものを渡した。

それは―、生まれたばかりの金髪の赤ん坊を抱いた、聖母子像だった。
パステルで描かれたそれは、ユリウスの面影をそのまま写し取った金髪の聖母が、面差しの似た金髪の赤ん坊を抱いているもので、優しく柔らかな色彩が美しく、少し伏せた青い瞳で幼子を見つめた聖母は安らかな表情を浮かべ、今まで見たどの聖母像よりも慈しみ深く美しかった。
そして―、なぜかその背景には小さく小熊が描かれていた。

「プっ!」
その小熊を指してユリウスが思わず吹き出す。

「ミーチャったら…。こんなところに自分をちゃっかり入れてる」
肩を揺すって笑ったユリウスの笑い声が、いつしか嗚咽にかわる。
息子の描いた絵を胸に抱いて、伏せられた長いまつ毛からはたはたと涙が零れ落ちる。

「ミーチャに…ミーチャに会いたい。会って抱きしめてキスして…それから…」
こみ上げてくる嗚咽に言葉が続かず、絵を抱きしめたまましゃくりあげる。

そんな妻をアレクセイは優しく抱きしめて背中を撫でさすり続ける。

「…この抱擁は…ミーチャからだ。あいつにな「僕の分もムッターを抱きしめてきて」って…頼まれてたんだ。だから…この抱擁はあいつからだ…」
―あいつもお前の事を想ってる。離れていても心は繋がってるんだ。それは…6年俺を待っていてくれたお前が一番良く分かっている事だろう?さあ、もう泣くな。じゃないと俺は…お前がミーチャに会いたがって泣いていたと、あいつに報告しなきゃならん。あいつを心配させたくないだろう?だから、もう泣き止んでくれ。な?奥さん。

アレクセイは頬を濡らす涙をそっと拭ってやり、涙に濡れたまつ毛に、頬に優しく口づけた。

作品名:62 ミハイロフ邸にて 作家名:orangelatte