BRING BACK LATER 2
セイバーは声を飲んだ。
漆黒の瞳を濡らしてこぼれ落ちた雫が、頬を滑っていく。
空を見上げる表情の無い横顔の、顎を伝って落ちていく幾つもの雫。
「どれが真実で、どれが虚構で……っ……」
顔を下ろしたシロウは、自身のこぼす涙に初めて気づいたように驚き、
「こんな水が落ちてきても、何が真実で俺が何をしても……」
両手で目を覆い、項垂れてしまったシロウの背をそっとセイバーはさする。
「大丈夫です、あなたは虚構などではない。その涙が真実でないなど、ありえない……」
ボロボロだ、とセイバーは思った。
確かにシロウははじめからおかしかった。だが、こんな砂像のような内面を持っているとは思いもよらなかった。
波に洗われ、あるいは風に吹かれて姿を失っていく砂像。それと似ているとセイバーは思う。
温かい春風ですら彼の心を壊してしまいそうで、無性に身を挺して守りたくなる。
「大丈夫ですよ、シロウ……」
何度もそう声をかけた。
「あれ……」
帰宅した士郎が真っ暗になった縁側で見つけたものに、唖然として声を上げる。
「セイ……」
セイバーが指を立てて口元に当てたのを見て、士郎は言葉を切る。
静かに近づき、士郎は苦笑をこぼした。
「寝ちゃってるのか……」
小声で言って、セイバーに目を向けると、セイバーは小さく頷く。
「どうする? 洋室に運ぶか?」
士郎が思案しながらセイバーと相談していると、むくり、とシロウが身体を起こした。
「あ、起きた」
「…………」
何度か瞬きを繰り返し、セイバーを見て、中腰の士郎を見上げ、シロウは腕を組んで考え込む。
「おい、どした?」
「俺は……、何をしているんだ……」
士郎はセイバーと顔を見合わせ、吹き出した。
「おまっ、覚えてないのかよ!」
「いや、覚えている」
「え?」
居住まいを正し、
「セイバー、お世話になりました」
生真面目な顔で、三つ指ついて頭を下げるシロウに、セイバーも士郎も呆気にとられる。
「あ、い、いえ、こ、こちらこそ」
セイバーも姿勢を正して、頭を下げた。
「っぷ……」
士郎が小さく吹く。
「な、なんですか、シロウ!」
「い、いや、何があったか知らないけど、セイバー、仲良くなれたんだな?」
「はっ!」
今気づいたのか、セイバーは顔を赤くして俯いた。
「仲良く?」
士郎を見上げたシロウが訊く。
「ああ。セイバーは、お前と仲良くなりたかったんだってさ」
「喧嘩をしていたわけじゃない」
「あー、だから、えーっと……」
言葉に窮し、士郎はなんと言えばいいのか、と迷う。
「あ、そ、そうだ、シロウも帰ってきましたし、晩ご飯を食べましょう! ね! ね?」
いろいろと紛らわすようにセイバーが元気な声を出す。
「あ、そうだな! 腹減ってたんだ。お前が作ってくれたおかずが残ってて助かるよ」
「助かる?」
「ああ、作る手間が省けるからさ」
「そうか」
どことなくうれしそうなシロウを感じ、士郎はその頭を撫でる。
「助かってるよ、お前がご飯作ってくれて」
シロウは数度瞬く。士郎の手の温もりが、似ている、と感じた。
今は気配さえ感じることのできないアーチャーと酷似している。当たり前かもしれない、アーチャーとてエミヤシロウなのだから。
だが、シロウはこの時、初めて気づいたのだ。今まで接触することなどなかったし、シロウ自身、士郎にはまったく関わろうとしてこなかった。
今、突然そんなことに気づき、しかも遠く離れたアーチャーの気配も感じられない。アーチャーの温もりが恋しくて、シロウは縋りたくなる。代替品でもいいから、と思いそうになる。
「士郎……」
「え?」
シロウに呼ばれ、しかも、その声は甘えるようなもので士郎は驚きを隠せない。今までシロウが士郎の名を呼んだことなどなかったし、シロウはアーチャーにしかこういう声を出さないと知っている。
シロウは無意識なのだろうが、やはり士郎は戸惑ってしまう。
「も、もう一回」
「はい?」
さらにそんなことを言われ、声がひっくり返る。
「さ、さっきのを……」
一心に見つめられ、シロウのその瞳がやたらと熱を帯びていることにうろたえ、手を指された士郎は、ああ、と、どうにか頷く。
「な、なんだよ? あ、頭、撫でられんの、好きなのか?」
内心の焦りで口がうまく回らない。シロウの頭を撫でながら、黙っていることもできずにそんなことを訊くと、
「好き……、じゃ、なくは、ない」
「どっちなんだよ……」
よくわからないぞ、と言いつつ、士郎はシロウの頭を撫で続ける。ニコリともしないシロウの頭をなでなでとしながら、なんだか気恥ずかしくなってくる士郎だった。
そんな二人を指を咥えてセイバーが見ていたのは、言うまでもない。
***
がり。
噛み潰した途端に口の中に広がる苦み。
「チッ」
その苦みに舌打ちしながら、甘んじてその不快な味を堪能する。
「なぁに、不機嫌ね」
食事を終えた凛が支度をしながら訊く。
「不機嫌にもなる」
「仕方ないでしょー、使い魔を二人も連れて来られないし、っていうか、アーチャーが反対したんじゃない」
「ああ、そうだ」
「まったく。八つ当たりとか、やめてよね」
していない、とアーチャーはムッとする。
確かにシロウを連れて来ることを反対したのはアーチャーだ。
凛は引き離すのは心配だからシロウを連れて行くと言ったが、何かあってはと思い、残していくことをアーチャーは提案した。
私とて心配だ、とアーチャーは残してきたシロウを思う。
だが、こちらで何か、それこそ治癒すらできない傷でも負ってしまえば、シロウは座に還ってしまう。そんなリスクを負うことはできない。
(大丈夫だろうか……)
抑制剤を凛から渡されているので、吐き気や頭痛はどうということもないだろうが、あの家に一人残してきたのは、やはりまずかったのではないかと、今になって心配してしまう。
「――ええ、そう。わかったわ。引き続き、よろしくね」
凛の声に、思考の底から引き上げられる。凛は衛宮邸に電話を入れているようだ。凛もやはりシロウのことが気になっているらしい。
(何事もなければいいが……)
自身の手を見つめ、アーチャーは小さくため息をついた。
触れたいと思う。
傍に居たいと思う。
それに、抱きたいと思う。
シロウに関してだけは、どうしても自身が抑えられない。
元が同じだという甘えがあるのか、シロウがアーチャーを求めてくるからか、判然とはしない。
(いや、私を求めていたのは、少し前までで……)
シロウはこのところ、アーチャーを求めている様子ではない。求めているのはアーチャーの方だ。
(傍に居たいと思うのが繋がれた所以だと気づいたのか……)
気づかせてやらなければ、と思っていたことにシロウが自身で気づいたのだから、よかったと喜ぶべきところなのだが、アーチャーは喜べない。
(もう私を求めはしないのか……)
残念に思っている自分自身に呆れながらも、アーチャーは自身を律することには長けているため、正しい道を見極めようとする。
(士郎が望むのなら……)
身を引く覚悟はできている。
作品名:BRING BACK LATER 2 作家名:さやけ