花、一輪
雨上がりには程遠く
アンジェリークが目を覚ましたとき、ルヴァの姿はそこにはなかった。
キッチンのほうから物音がしていたためそちらへ行こうと体を起こして、いつの間にか掛けられていたブランケットの上に白い花がはらはらと降り注ぐ。
肩や髪にこっそり仕掛けられていた可愛い悪戯に思わず口元を綻ばせ、香りを楽しみながらひとつひとつ丁寧に拾い上げてルヴァを探しに行くことにした。
キッチンではルヴァが無職の居候でいるわけにはいかない、せめて料理くらいは、と気合を入れて野菜と格闘していた。
ぱたぱたと近づく小さな足音に気づいたルヴァがアンジェリークのほうを振り返り、にっこりと口角を上げた。
「良く眠っていましたね。もう少しで夕食ができますから、あなたはゆっくりしていて下さい」
その発言にアンジェリークは驚いた顔で口を開く。
「ええっ!? ルヴァ、お料理なんてできましたっけ?」
「あんまりやったことはないんですけどね、何もせずに置いて貰うわけにはいきませんから。あっ、冷蔵庫のものを使っちゃいましたけど、問題ないでしょうか」
「ええ、自由に使っていいわ。で、何を作ってるの?」
アンジェリークがついと覗き込んだ先には既に筋切りを済ませ塩胡椒をした豚肉が置いてある。
「えっと、ポークソテーくらいなら焼くだけだし、私にもできそうだなあと……これからスープを作るところです」
「美味しそうね! ポークソテーならじゃがいものピュレもいるわよね。わたしも手伝っていいかしら?」
そうして結局二人でお喋りをしながら調理をこなし、出来上がった料理を前にアンジェリークが目を輝かせている。嬉しそうなアンジェリークの顔を見てルヴァの頬も上がりっぱなしだ。
いただきますをして食べ始めた途中、ふいにルヴァの手が止まった。アンジェリークが何事かと視線を上げると、顔を紅潮させてけふんと小さく咽ている。
「ルヴァ、大丈夫?」
「大丈夫です。ちょっと考え事をしてて……気管に入っちゃいました」
小首をかしげて不思議そうな顔の彼女に、ルヴァはナフキンで口元を拭いながら照れ臭そうに笑った。
(こうしていると何だか新婚のようだ、なんて恥ずかしいことを言えるはずありませんね……)
食後のお茶でほっこり寛いでいると、アンジェリークが先程のジャスミンとフローティングキャンドルを浮かべた硝子の水盤を持ってきた。
愛おしそうに手元のジャスミンへと視線を投げかけ、それからルヴァを見てにこりと微笑む。
「まだ綺麗に咲いてるから、捨てちゃうのは勿体なくて……」
そんなアンジェリークの言葉の後、二人のまなざしがテーブルの中央にそっと置かれた花器へと注がれる。
なんとなく訪れた沈黙はルヴァにとって心地よく、ティーカップを持ったまま目の端でこっそりとアンジェリークの表情を盗み見ていた。
暫くそんな時間が続き、お茶を飲み終わった頃を見計らいアンジェリークが話し出す。
「ルヴァ、あなたのお部屋のことなんだけど」
「はい」
「ちょっと来てくれる?」
案内された部屋はカーテンと机はあるもののどうやら使われていなかったようで、店の在庫の仮置き場と化していた。
「自由に使ってくれていいわ。ちょっと邪魔な荷物もあるけど、明日向こうに運ぶから」
「ありがとうございますー」
「他に必要なものは明日買いに行きましょう。来客用の寝具もないから、今日は……あの……」
そこで赤面して口ごもったアンジェリークが「わたしのベッドを半分こしましょう」とやたら小さな声で言ったため、気恥ずかしさがルヴァにまで伝染した。
「はっ、はい……」
さほど大きくもない鞄を室内に置いて顔を上げたとき、ふと視界の隅に目が留まった。
「あれは……」
在庫の箱に隠れるようにして置かれた釣り竿が、壁際にぽつんと立てかけられている。
「アンジェ、あの釣り竿はあなたのなんですか?」
彼女が釣りに興味があったとは、と些か驚きながらアンジェリークへと目を向けると、どこか寂し気な微笑を浮かべて首を横に振る。
「ううん、誰のものでもないわ。なんとなくね、置いてあるだけなの……」
せめて貰い物だとでも言ってくれれば妙な期待をせずに済んだのに────ルヴァはまたしても突き放されたような感覚を覚え、言葉の奇妙な違和感に胸がざわつき始める。
「そう……ですか。では今度時間ができたら、一緒に釣りに行きませんか。明日買い出しのついでに釣り道具も見に行って────」
みましょう、と続ける前に彼女の言葉に遮られた。
「暫く忙しいから、落ち着いたらね」
アンジェリークの頬の上に薄く貼り付いた笑みがその下にある嘘を覆い隠しているようにも思えたが、ルヴァにはそれ以上踏み込むことはできなかった。