花、一輪
その後ルヴァに続いてシャワーを済ませたアンジェリークから何事もなかったかのような声で案内された寝室で、ルヴァはただ時間が過ぎるのを待っていた。
ベッドが狭くて寝返りが打てないというのもあるが、それ以上に背中にほんのりと感じる体温と、寝具から漂う彼女の香りがルヴァの睡眠を大いに妨げていた。
本棚に囲まれた部屋に、執務服の色によく似たブランケット。そして庭の片隅に咲いたジャスミン。
あの釣り竿も自分を思って置かれたものかも知れないという考えが、そうだったらいいのにという淡い希望とないまぜになってルヴァの頭から離れない。
聖地に来てから去るまでの間、彼女が恋愛めいた言葉を伝えてきたのは机にひっそりと入れられていたあの豆本の存在だけだ。そしてあれに書かれていた気持ちは今もあると確認できた。
それなのに────こうして再会を果たしずっと一緒にいられるにも拘わらず、突然妙に突き放した物言いをする彼女の態度はどうにも不可解だ。
ふいにアンジェリークが起き上がり、ルヴァは慌ててきつく目を閉じる。微かな衣擦れの音がゆっくり移動して扉が閉まった。
喉でも乾いたのかなどと考えながらごろりと寝返りを打てば、アンジェリークの温もりがそこにあった。
ルヴァは徐々に冷えていくシーツに手を這わせ、そっと頬を寄せてみる。
(違う。私が欲しいのは……)
急速に失われていく温もりに耐え切れなくなったルヴァは小さく嘆息し、ベッドから抜け出てアンジェリークを探す。
アンジェリークはテラスで床にぺたりと座り込み、何かを胸に抱えていた。
暗闇の中でよく目を凝らして見てみれば、見慣れた細長い布を愛しげに抱き締めてそうっと唇を押し当てている。
街灯に照らされ仄かに明るい庭を背景に幾度も繰り返される行為はどこか祈りを捧げる修道女のようでもあり、厳かな儀式を思わせる神聖さを伴ってルヴァの胸を震わせる。近付いていいものだろうかと悩むより先に、足が勝手に動き出していた。
「アンジェ……眠れないんですか」
声をかけた瞬間はっと上げた顔に浮かんでいた悲痛の色を、彼女はすぐに塗り替えてしまう。ルヴァはその酷く芝居じみた笑みには反応せず、ゆっくりと彼女の横に膝をついた。
「まさか自分がね、布にまで嫉妬できるとは思ってもみませんでしたよ」
困り顔でくすりと笑って、アンジェリークが抱えたターバンを優しく取り上げて肩を引き寄せた。細く柔らかな金の髪が引き寄せた勢いに負けてふわふわと舞う。
片手でついとアンジェリークの顎を持ち上げると、不安げに揺れる翠の瞳とぶつかった。
「……私にも、下さい」
彼女の口から一切語られることのない思考を少しでも汲み取りたくて────否、単純にアンジェリークに触れたくなっただけかも知れない────ルヴァは思うがままに唇を重ね合わせる。彼女を求めてやまない気持ちを込めた今度の口づけに、迷いはなかった。
しかしその直後に彼女の瞳から雨粒のように涙が零れ落ち、頭の中が真っ白になった。
「アンジェ!? あ、あの、嫌でしたか」
慌ててぽろぽろと頬を伝う涙を親指で拭うと、アンジェリークは何度も首を横に振った。
「や、じゃない……の」
「では何故泣いているんですか……?」
困惑したルヴァの声に、とうとう両手で顔を覆って泣き出したアンジェリークは更にふるふると首を振り続ける。その姿に戸惑いつつ、ルヴァはアンジェリークの小さな頭を自分の胸につけるようにして抱き締めた。
「私に理由を教えてくれませんか。問題解決の糸口が見つかるかも知れ────」
「解決は……できないの、どうしようもないことだから……」
嗚咽を堪えて絞り出された声には強い悲嘆の色が表れて、ルヴァは一瞬寒々とした寂寞感に侵される。
とどのつまりは頼られたいのだ。どんな些細なことでも彼女の力になりたいと思っているのを分かって欲しいと、ルヴァは慎重に言葉を選びながら語りかける。
「例え解決できなくても、話すだけで楽になることもきっとあると思うんです。もし良かったら……ですけど、話したくなったらいつでも言って下さい。私なんかでは力不足かも知れませんが」
小刻みに震える肩がこれ以上冷えないようにと、すぐ脇にあるブランケットを広げてアンジェリークを包んだ。
「あなたが望む限り、いつだってこうして側にいますから……一人で抱え込まないで」
女王の重責から解き放たれてもなお何かに怯え苦しんでいる様子が痛ましくて、ルヴァはやるせない気持ちに苛まれ、そして祈らずにはいられない。
こんな漆黒の夜に彼女の双眸からただはらはらと零れ落ちる玻璃の滴が、まるでいつまでも止まぬ雨のようで。
今はまだ二人の月が厚い雲に隠されているのなら、いっそ本当に雨が降り注げばいい。そして大地をしとどに濡らして、雨上がりにはこの人が笑みを取り戻せるように────
悲しみの波が去ったのか、くすんと鼻を鳴らしているものの徐々に落ち着きを取り戻してきたアンジェリークに、ルヴァはできる限りの平常心をもって微笑みかけた。
「もう寝室に戻りましょう。横になって目を閉じているだけでも多少は休まりますから……ね?」
濡れたまつ毛でこくりと頷くアンジェリークに再びターバンを手渡して、繊細な細工品を持ち上げるように両腕で優しく抱き上げる。
「明日の朝までお貸ししますから、好きなだけ抱っこしていいですよー」
穏やかな声でそう告げると、預けたターバンをぎゅっと抱え込んで恥ずかしそうに俯いた小さな頭がことりと胸に寄りかかった。
ベッドの上にアンジェリークをそっと下ろして、自身も先程と同じように彼女の隣へ滑り込む。アンジェリークに羽根布団をしっかりと掛けながらルヴァはにこりと口角を上げた。
「アンジェ、ちょっとだけ頭を上げてくれませんか」
「……? はい」
不思議そうな顔で頭を持ち上げるアンジェリークへとぐっと身を寄せて、首の下に腕を置いた。
腕枕だと気づいたアンジェリークが大慌てで離れかけたのを、空いた片腕で引き留めた。
「どうかこのままで。余計なことは何も考えないで、目を閉じているといいですよー」
そう言い聞かせながらルヴァは背中側にあるナイトテーブルのほうへ体を捻り、ランプの照明を落とした。静けさに満ちた暗がりの中でアンジェリークの頭を撫でている内にとろとろと眠気を催し瞼が重くなってくる。アンジェリークのほうも緊張で強張っていた力が徐々に抜け始めて、次第に寝息が深くなっていった。
いよいよ眠りに落ちそうになり、ルヴァは寝入ったアンジェリークの額におやすみの口づけをして瞼を閉じた。