花、一輪
ルヴァが次に視界に入れたのは、カーテンの隙間より射し込む朝日に照らされ眩しく輝く白壁だった。
視界を占領する光の領域にゆっくりと目をしばたたかせた後、腕枕をしていたために一切感覚のない左側へと視線を流し、背を丸めたアンジェリークの姿を目に留めた。
寝息すら聞こえない静かな呼吸で微かに上下する体。そっと撫でると指先に優しく絡む金の髪。穏やかな朝の光に包まれて一気に溢れ出す幸福感に笑みを浮かべた。
目を開ければ思い焦がれた人がすぐ隣にいる生活────それはルヴァが長年密かに求め続けていたものだった。
(今はやむを得ない事情でこうなっているだけですけど……それでも側にいられるというのは、やはり嬉しいものです)
寝返りを打つと見せかけてアンジェリークをそうっとそうっと抱き締め、小一時間後に目覚めた彼女が驚いて小さく叫ぶまでの間、ルヴァは上機嫌で眠ったふりをした。
しかしどうやらルヴァの手の置き場所が悪かったらしく────思い返してみればアンジェリークの胸のすぐ下あたりに腕を回していた────真っ赤な顔で狼狽えたアンジェリークから、起床するなり思い切りデコピンを食らった。
「……いたいです」
「自業自得です」
額をさすりながらへの字口になるルヴァにターバンを突き返し、むっすりと寝室を出て行ってしまったアンジェリークを慌てて追いかける。
「気付いたらああなってたんですから、あれは不可抗力というものです。わざとじゃありません」
思い切りわざと抱き着いていたのだが、とりあえずしらばっくれるルヴァ。その発言にアンジェリークはぴたりと足を止めて振り返った。
「……ルヴァ?」
「はい」
アンジェリークの綺麗に上がった口角とその割には笑みのない瞳がこんなにも恐ろしく思えたのは、知り合ってから初めての経験だった。
「あなたがこういう事態で赤くならずにスラスラ話すときは、嘘も方便モードに入ってるって気づいてるかしら」
すっかりバレていた。下手な誤魔化しはするだけ無駄と悟っておもむろに膝をつき、おとなしく二度目のデコピンを食らった。
「…………すみませんでした」
「もう……えっちなんだからー……」
頬に赤みの残る決まりの悪そうな顔でふいと横を向くアンジェリークの白い手を握り込んで、ルヴァは切々と言い分を述べる。
「好きな人が腕の中にいて、とっても幸せだなあと思っただけなんです。ですからそのー、た、確かに手の置き場所についてはデリカシーがなかったので謝りますが、あなたを抱き締めていたことは謝りませんからね」
男が女に謝るときは謝罪の内容を明らかにせよ、とりあえずの謝罪は火に油────とはオスカーの至言だ。当時この話を聞いていた頃には、まさか自分が女性に謝らねばならない事態を引き起こすとは露ほども思っていなかった。それにしたって口づけを交わしているのだし、何もここまで怒らなくてもとは思う。
「怒っていますか……?」
恐々と尋ねると、無言で握っていた手を振りほどかれた。
「もう怒ってないです。けど、次にああいうことしたらすぐに出て行って貰いますから」
ゆっくりとキッチンへと向かうアンジェリークの行く手を阻み、ルヴァは眉尻を下げた。
「そっ、そんなに酷いことでしたか。でもあのっ、あなただって私のことを────」
「ねえ、お友達でいましょう? ルヴァ」
爽やかな笑みを浮かべまるで天気の話でもしているかのような軽さで発された言葉が、頭の中を素通りしていく。
ここへ来る前、もし彼女に家庭があったなら、幸せを祈っておこうと思っていた。
受け入れて貰えないこともあるだろうと覚悟はしてきたはずだった。
それなのに────今の一言がずきりと胸を穿ち抜けない棘となって、ルヴァの呼吸を妨げる。
「なんで……ですか。昨日の話は、全部嘘だったんですか? 私がしたことは全部……ぜん、ぶ」
あなたを苦しめていたのか。口づけや抱擁も迷惑だったのでは────という言葉を出そうとして喉に引き攣る痛みが走った。
瞳を揺らがせてアンジェリークを見つめると、翠の瞳が穏やかに見つめ返してきた。
「あなたの気持ちは嬉しいけど……今は良いお友達としていたいの、分かって」
静かに諭してくるまなざしが余裕を見せつけ、分かたれていた時間の長さを物語る。聖地で同じ時間を共有していた頃には自分が彼女に教え、ときに諭し、何くれとなく力になれた。頼られているという喜びがあった。それが今では自分のほうが諭される側の若造として見られている。きちんとした理由すら告げられることもなく、当たり障りのない言葉で容易に遠ざけられる存在だと思われている。
「分かりません……!」
本当に理解の範疇を超えていた。想いが通じたと思っていたのは自分だけだったのか────とうとう混乱をきたしたルヴァはアンジェリークの両肩をがしりと掴んで視線を合わせた。
「初めから友達でいるつもりなら、なぜこんなあっちこっちに私の面影を残しておくんですか……それですら私の勘違いなんでしょうか。理解に苦しみます」
ルヴァの声が震えた。通常よりも低い響きには怒りや失望、苛立ちや悲しみがごちゃごちゃに含まれていて、複雑に絡まり合い解けなくなった絹糸のようだった。
アンジェリークの華奢な身体を廊下の壁へと押し付けてじっと見据えるも、彼女の表情にこれといった感情は見られない。
「私の気持ちは散々お伝えしてきた通りです。本当に嫌でしたら、思い切り引っ叩いて下さって結構ですよ。オルヴァルにしたように、さあどうぞ、遠慮なく」
言い終わるなりアンジェリークの唇を塞いだ。
いっそのこと徹底的に嫌われてしまえ、というやけっぱちな気持ちが沸き起こると同時に、柔らかな唇の甘さに意識を持っていかれる自分がほとほと情けなくなる。
こんなことをする人は嫌いだ、とか。
もう出て行ってくれ、だとか。
二度と会いたくない、だとか。
そんな言葉と平手打ちが飛んでくるのを待っていた。そうしたら諦めがつくと思っていた。
それなのに、アンジェリークはひとつとしてそういった類の言葉を投げつけてはこなかった────残酷なほどに。