花、一輪
「もっと早くに会えていたら違ったかもしれないけど、人生って思うようにいかないものね」
今のあなたはわたしの息子みたいだ、とアンジェリークは言葉にできない。
彼女自身、これまでどれだけ他の人間に想いを寄せられてもルヴァへの密やかな感情を断ち切れず、ただ時間だけが過ぎ去った。アンジェリークとしてはそれで十分だったのだ。ルヴァが実際こうして会いに来るとは少しも思わず────否、都合のいい妄想だけは何度もしたが────ただひとつの恋を大切に抱き締めながら独りで朽ちる覚悟でいたのだから。
視線を落とし黙したまま何かを考え込んでいる様子のアンジェリークへ、ルヴァは思い当たることを口にした。
「あの店員が言ったことを気にしているんですか? その……親子に見えるっていう」
「気にするも何も、単なる客観的な事実じゃないの」
自嘲気味を通り越して自虐の域に達した言葉は、鋭利な刃物の如き鋭さでアンジェリークの心を深々とえぐる。そして、ルヴァの心をも同様に。
「またそんなことを……! どうしてそれほどまでに自分を卑下するんですか! 私がどれだけあなたを愛していると────」
「わたしも愛してるわ、ルヴァが望む形ではないけど」
一見穏やかな表情で目を伏せるアンジェリーク。しかしその瞼の裏側から今にも溢れ出してきそうな深い哀愁が、ルヴァの喉から声を奪った。
もしも心の傷が目に見えたとしたら、今の彼女は血に塗れているような気がした。
どうしてあなたはそうやって言わなくてもいいことを曝け出してその都度いちいち傷ついているのか、延々と続く痛みに独りで耐えていけるほど強くもない癖に、とルヴァは問い詰めたい衝動に駆られていた。人の気も知らないで、馬鹿も休み休み言えと頬を引っ叩きたくもなった。だがそれで解決できる話なら、とっくにそうしている。
アンジェリークの鈴のような軽やかな声が響く。
「思い出してみて頂戴。あなたが年上だった頃、わたしとの間にずっと一線を引いていたでしょう?」
「そ……れは」
ああやはり、と頭のどこかで思った。
ルヴァの心の中に落とされた黒い不安はいまやすっかりその形というものを失って、透明の中に溶け込んでほんのりと水を濁らせている。あとは腐るのを待つだけだ。
彼が予想していた幾つかの結末の、最も悪い予兆が既に想定の範囲内に見え始めていた。
「今のわたしはね、あの頃のあなたの行動が理解できる程度には大人になったわ。ただ与えられるだけで良かった時期は終わったの」
引きつった笑みを頬に貼り付けたアンジェリークの恐らくは精一杯の演技を、ルヴァはただ、あの日整理し尽くしたがらんどうの引き出しのような空虚さでもって見守るしかなかった。
違うんです、と言えたらどんなに楽だろう。
あのときは常識ある大人ぶっていたけれど、あれはあなたに軽蔑されるのが何よりも怖かったんです、本当は外聞を気にして好きな人に好きと告げる根性もない、意気地なしの、ただの臆病な弱い人間なんです────と、そう言えたなら。
ロッキングチェアーがきしりと音を立てて揺れ、アンジェリークがゆっくりと立ち上がる。
「お茶……美味しかったわ。ごちそうさま」
振り返ることなく彼女がテラスを出て行ってしまう。優しさと悲しみと張り詰めた緊張に満ちているこの室内から。
ほんの僅かに残った細い細い絆と、言葉を失い茫然としたルヴァを置き去りにして。