花、一輪
それからルヴァはのろのろと茶器を片づけて、重い足取りでキッチンへと戻った。
アンジェリークの姿は見当たらない。半分物置と化していたあの部屋か寝室にいるのだろう。
とりあえず買ってきた荷物を与えられた部屋へと運んでみたが、その室内は寒々としたままだ。
独りで暮らすには広すぎる家。ルヴァの好きな色や好きなものに溢れ、彼女が誰を待っていたのかが余りにも明白な空間。
だが雑然としたこの部屋に漂っている寂しさと諦めの気配が、ルヴァの身体に圧し掛かり熱を奪っていく。
「今からだって遅くなんかないんです。だって生きているじゃないですか……あなたも、私も……」
呟いた言葉は、受け止める者のいない部屋に空しく響いた。
寝室の扉の前に立ったルヴァは静かに呼吸を整え、小さくノックをして中にいるはずのアンジェリークに声をかけた。
「……アンジェ、入ってもいいですか」
どうぞ、と声が聞こえて扉を押し開ける。
ベッドのふちに腰かけて項垂れたアンジェリークが視界に入り、ルヴァはその横に腰を下ろした。
俯いている彼女が小さな声で話し出す。
「……さっきはごめんなさい」
どうして謝るのかと驚いて、アンジェリークの横顔に視線を走らせた。金の髪の隙間から見える頬には強く擦った跡がある。
「泣いていたんですか、ここで……」
こくりと頷いたアンジェリークの姿が堪らなくいじらしくて、ルヴァは細い肩を抱き寄せた────本当は、ぎゅっと強く抱き締めたかったけれど。
「謝らなければいけないのは私のほうです。あなたが今抱えている葛藤を、以前の私は良く知っていたんですから……それをすっかり忘れて、急かすようなことばかりしてしまいましたね。あなたの気持ちも考えずに」
彼女の金の髪を撫でながら、親愛の意味を込めてこめかみにそっと唇を寄せた。
「今度ははっきり聞きますね。ずっと……私を待っていてくれたんでしょう?」
それはあなたの勘違いだ────そう言われるのが怖くて胸にしまい込んだ言葉。だが先走った行動でアンジェリークを追い詰めてしまうのなら、今度こそきちんと質問をして答えを得ようと、ルヴァは勇気を振り絞って問いかけた。
アンジェリークがすっと顔を上げ、翠の双眸が真っ直ぐにルヴァを捉える。
「はい」
その声は今までの返事の中で一番強い意志を纏い、ルヴァの耳に届いた。膝の上で固く握られていたアンジェリークの手を取って自分の胸に押し当てる。
「随分とお待たせしてしまいましたけど、ほらね、私たちはこうして生きて出会えたんですよ、アンジェ」
とくとくと少し早めに脈打つ鼓動が手のひらに伝わり、あっという間に顔を歪ませていくアンジェリーク。
それから堰を切ったように泣き出した彼女の背に腕を回した。
己に正直になる。想いを口にする。そして、ただ信じる────とても簡単だったはずなのに、大人になり痛みを知っていくにつれ、何故だか急に難しく思えるのはどうしてなんだろう。
それでも、ルヴァはアンジェリークに「迷うな」とは言えないのだ。かつての自分と同じ、むしろそれよりもずっと深い葛藤を抱えた愛しい人を前にして、自分如きが一体何を言えるのかとルヴァは考えあぐねた。
アンジェリークを抱き締めながら選んだ言葉は一所懸命考えた割には残念な陳腐さを伴っていたが、それも本心故に仕方がないと割り切って口を開いた。
「私はこの奇跡の縁をね、自ら手放したくはないんです。ですからあなたが待ってくれたのと同じくらいには、待ちますから」
親指の腹でアンジェリークの涙を拭って告げた後、発言の気障さに気づいて耳まで赤くなった。恥ずかしかったが、そんなルヴァを見たアンジェリークの頬がほんの少しだけ上がって嬉しくなる。
「そんなに待たれたら、わたしが先に死んじゃう……」
何を待つのかについてはぼかしてしまったけれど、どうやらきちんと伝わっているようだと判断して、ルヴァは彼女の髪にそうっと顔を埋める。
「それならせめて旅立つまでには答えを下さいね。次の世界でもあなたを追っていいものかどうかは知りたいです」
そう言いつつ自分の執着ぶりに若干の気持ち悪さを感じ、試しにアンジェリークの声で「もうやだルヴァったら気持ち悪い!」と脳内再生してみただけで胃がキュッとなり、今後絶対言われないように気を付けようと心に決めた。
ルヴァはゆっくりと立ち上がり窓辺から外を眺めた。夕刻が近づいてきて、西の空が赤みを帯び始めている。
光と闇の守護聖をそれぞれ朝と夜に例えたら、ルヴァは昼になるのかと問うたのは誰だっただろう。それへ面白い答えを返した人のお陰で、ルヴァはそれから夕暮れ時が好きになった。
「ねえ、アンジェ……いつだったか、ジュリアスが朝でクラヴィスが夜だったら、私は昼なのかって話をしていましたよね。覚えていますか」
アンジェリークは懐かしそうに目を細め、くすりと笑っていう。
「覚えてるわ。マルセルが言い出したのよね」
アンジェリークと年少組の四人、ときにはロザリアをも巻き込み五人でルヴァの執務室に文字通り「押しかけた」飛空都市での賑やかな日々。今の今まで彼女の中で静かに眠っていた十代の頃の記憶が、優しい痛みと共に蘇った。
「あー、そうでしたねえ。そうそう、誰だったかなーってふと思ったんですけど、マルセルでしたね。あのときのあなたの答えだけ頭の中にずっと残ってたんです」
話している間にも空は刻々と茜色に染まり、ルヴァはたなびく雲を熱心に眺めた。
「薄明……」
しんみりしつつも優しい響きが彼女の口から零れ出て、ルヴァは振り返って頷いた。
「そう、あなたは薄明なんじゃないかって言いましたね。朝と夜を緩やかに繋いでいるのだと」
うすらぼんやりしたオッサンだからな、と笑ったゼフェルに頬を膨らませ、そうではないと言い切ったアンジェリーク。
朝の終わり、夜の始まりを告げる夕暮れ。夜の終わり、朝の始まりを告げる夜明け。誰のものでもない時間、誰をも受け入れる穏やかなひととき、それがルヴァではないかと。
「そんなふうに言われたことがなかったので、あの言葉はとても印象に残ったんですよ」
「今思うとちょっと失礼だったかしら……」
すまなそうに首を竦めるアンジェリークへ、ルヴァは首を振って答えた。
「いいえ。元々私は暮れと明けの時刻は本の文字が読みにくいのであんまり好きではなかったんですけどね、あれから好きになったんです」
夕暮れも、朝焼けも────そしてあなたのことも。
心の中でそう付け加えて、赤らんだ頬を隠すにはもってこいの夕映えに再び視線を戻した。
逢魔が時が迫る。
言ってしまおうか、とルヴァは小さく拳を握った。二人の心に潜む魑魅魍魎に飲み込まれてしまう前に。
目を伏せていた間とても長く感じた数秒を経て、ルヴァは真正面から彼女の顔を見た。
「どちらかが愛を与える一方ではなく、お互いに与え合う道を歩いていきませんか。これからも、二人でたくさん迷いながら」
あの複雑に入り組んだ迷路のような街並みを、手を繋いで歩き回った今日のように。
「これは二人の未来の話なんですから、一緒にじっくり悩みませんか」