花、一輪
出会いは偶然か必然か?
ルヴァが店内へ足を踏み入れると同時にドアベルが鳴り、オルヴァルの緩くウェーブのかかった髪の隙間から翠の目が覗いた。
分厚い書物を読んで俯いていた顔を上げたのだ。
微に入り細を穿ってルーペで確認でもしているように観察すると、彼は本当にアンジェリークに似通っていた。髪の色、髪質、瞳の色、肌の色、まつ毛の長さ────アンジェリーク自身は名前からしてどこにでもあるくらい平凡なのだから、容姿だって平凡の極みだと笑っていたが、彼についてはどうも「よくある容姿」だけではないような気がするのだ。
扉の前で固まってオルヴァルを凝視していたルヴァへ、彼はとても微妙な表情で声を発した。
「あの……何か用ですか。オレの顔になんかついてます?」
「はっ。あ、あぁぁあすみません! あの、改めて見てみると本当にアンジェに似ているなあ、と思ったもので……」
慌ててぺこりと頭を下げたルヴァへ、笑いを含んだ声でオルヴァルは言葉を返す。
「良く言われますよ。最初に出会ったときは、オレの親父が外で女作ってたんじゃないかって疑ったくらいです。椅子、どうぞ」
キャッシャーや包装紙などが置かれた大机の前で、オルヴァルが椅子を勧めてきた。彼が座っているのと同様のデザインで、アンジェリークと一緒のときに使っているのかもしれない。
「ああ、お気遣いありがとうございます。えっと、そのー……あなたはどういった経緯でここへいらしたんですか?」
「あー……やっぱりそれ気になりますか。まあ普通そうですよね、うーん」
話していいものかと顎をさすり考え込むオルヴァルだったが、すぐに席を立ち後ろの棚に置かれたマグカップにコーヒーを注いで戻ってきた。ひとつをルヴァに手渡しつつ話し始める。
「あの人の膝が悪いのは知っていますよね」
ピンク地に濃茶の猫が描かれた、少し欠けたマグカップ────どう見ても明らかに彼女のもの────がルヴァの手の中にすっぽりと収まっている。
「ええ、彼女の年齢を考えるとあれが加齢によるものとは思えなくて、それも疑問なんですがねぇ……」
ここでの生活が実際どのような暮らしだったかは不明だが、まだ五十かそこらと思われる歳であの状態は少し早いような気がする。余程酷使してきたのであれば両膝に痛みが走りそうなものだが、彼女はいつも右側を少しかばったりさすったりしている。
言葉が途切れじっと考え込むルヴァの耳へ、オルヴァルの少し沈んだ声が届いた。
「乗ってた馬車が脱輪したんですよ。そのせいで横転して投げ出されちゃって」
ごつごつと硬く粗い作りの石畳の上に勢い良く投げ出されて、スカート姿でまるきり無防備だった膝の周辺が無残にも赤く染まっていた光景を、オルヴァルは思い返していた。
「あの日は雨が降ってて……皆、倒れてるあの人を遠巻きに見てるだけだったし、実際オレも通り過ぎようとしたんですよ……そしたら」
打ち付ける冷たい雨が彼女の周囲だけ赤く滲んで、道行く人々はちらちらと視線を投げかけるばかりだった。
それが何故だか無性に腹立たしくなって、傘を放り出して彼女の側に駆け寄った。
おいあんた、大丈夫かと声をかけたら、それまで頭からも血を流してぐったりしていたあの人がうっすらと目を開けて、雨音にかき消されるくらい小さな声が聞こえた。
「……微かにオレの名前を呼ぶんで、何で知ってんのって良く見たら、あんなに似てるでしょ……もうなんか、色々ほっとけなくて。結局オレが病院へ連れて行ったんです」
今思えば、あれは”オルヴァル”ではなかった気がする。確かに聞こえたのは”ルヴァ”だけだったから、朦朧とする意識の中で今向かいに座るこの男の名を呼んだんだろう。
名を呼ばれたと思った瞬間、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥ったことを、今でも良く覚えている。
恋をしたのかと訊かれてもどう答えたらいいのか分からない。ただ確実に言えることは、あのとき、彼女が偶然名を呼ばなければ────そして自分の名と酷似していなかったなら、二人は今一緒にいなかった。
それきり唇を引き結んで黙ってしまったオルヴァルの表情に、行き場のない寂しさが浮かんでいる。ルヴァはそれを見なかったことにして、そっと手元に視線を落とした。
「そうでしたか……では、そのときの外傷が元で膝を傷めてしまったんですね?」
横転した馬車の中か、投げ出された拍子に地面に強打したかして骨折したのだろうとルヴァは推測する。
町から帰宅する際、馬車で戻ろうと提案したルヴァに歩いて戻りたいと言っていたアンジェリーク。疲れているはずなのに何故かと疑問に思っていたが、この一件が原因だったのか、とルヴァは納得した。
「そう。で、リハビリだなんだと付き合っている内に、いつの間にかズルズルと現在に至ってます。……ここだけの話ですけど、あの人の頼みってなんか断りにくいんですよね」
気まずそうに声を潜めるオルヴァルだったが、ルヴァは彼の発言内容が分かりすぎて思わず吹き出してしまう。
「あー……あの人は昔からそうですよ。誰も逆らえませんでしたからね……あの通りですから」
くすくすと笑い続けるルヴァに、オルヴァルの片眉が上がる。
「オレも疑問なんですけど、ルヴァさんっていつあの人と出会ったんですか」
オルヴァルの質問をある程度予測していたのか、ルヴァが間を置かずに話し出す。
「初めて出会ったのは、アンジェが十七の頃ですねえ。スモルニィ女学院の制服を着て、いつも明るくて何事にも辛抱強く頑張る子でしてね、それはそれは可愛かったんですよー。今も可愛いですけど」
ルヴァの顔にふんわりと優しい笑みが浮かんだ。いま彼の心の中の大切な思い出を抱き締めているのだと、そっと胸に宛がわれた片手が伝えている。
そこでオルヴァルの顔が奇妙に歪んだ。どう見ても彼のほうが三十歳近くは年下に見えるというのに、発言の印象がまるきり逆だ。
「おや、どうしました? どこか具合でも」
「あ……いや、失礼しました。いや何かこう、年上の人を褒める内容にしては随分良く覚えていらっしゃるんだなと……」
少しだけ目を丸くさせてから、ルヴァはにっこりと頬を上げていく。
「それはそうですよ、私はあの人より九つ年上だったんですからね」
「……………………はい?」
言っている意味が分からない。じいっと見つめるルヴァのまなざしは真剣そのもので、そこに嘘はなさそうだとオルヴァルは思った。
「私たちが過ごしていた場所は、聖地です。あなたもおとぎ話に聞いたことくらいはあるでしょう?」
アンジェリークに良く似た彼に何かを感じ、ルヴァはさらりと事実を教えることにした。一方、驚愕の事実をいきなり聞かされることとなったオルヴァルのほうは情報の処理が追いつかず、目まぐるしい速さで表情が入れ替わっていた。
「っせ、聖地……って、あの、この世界を導く女王陛下と守護聖さまがいるっていう、伝説の……?」
スモルニィに通っていたアンジェリークでさえ、いざ実際に候補になるまでは聖地とそこに暮らす守護聖や女王の存在について、今の彼と同程度の認識しかなかった。
もっと辺境の星へ行けば更に神格化されていることもザラだ。遠き存在でしかないのだから、そんなものなんだろう。