花、一輪
今にも泣きそうなほど目を潤ませた彼が、とてもとても柔い微笑みとまなざしをアンジェリークへと真っ直ぐに向けていたのだ。
「夫婦は一番小さな家族の単位ですよ、あなたという家族ができるじゃないですか。どうしても子供が欲しいなら、養子縁組という手段だってあります。それに」
指先で軽く目元を拭ったルヴァが、再び嬉しそうに頬をすり寄せる。
「もし仮に若い内に再会できたとして、あなたに問題がなくても私に身体的な問題が生じていたかも知れません。不幸にも事故などで生殖機能を失う場合もあるはずです。あとはー、えーそうですね、出会い方によっては私たちはもしかしたら男同士だったりしたかも知れませんし。どうですか、そんな状況だって子供を望めない可能性としてはあり得る話でしょう?」
淡々と説明されてみれば確かに、と一瞬納得しかけたアンジェリークだったが、最後の発言が引っかかった。
「他はともかく三つめはちょっと例えがアレね……」
「私はあなたがこの星で性転換していても気にしなかったと思いますよ、たぶんですが」
彼が精神的な結びつきについて言っているのは重々理解しているが、なんとなくオルヴァルが長身で良かったと密かに思うアンジェリーク。
「その発言もどうかと思うけど、ありがとう……」
衝撃発言に気圧されて少し引き気味のアンジェリークの様子に怯むことなく、嬉しそうなルヴァの言葉は続く。
「ねえ、アンジェ。私はね、大切なのは血の繋がりだけではないと思うんです。そこにちゃんと愛があって初めて、家族だと言えるんじゃないですかね」
照れ臭そうに口角を上げて微笑んだルヴァがそうっとアンジェリークの額に唇を押し当てて、それからぎゅうっと抱き締める腕に力を込めた。
「ですからね、私の未来を案じてくれたのは嬉しいんですが、本当の望みを見落とされては困るんです……あなたと添い遂げたいっていう私のたったひとつの望み、叶えてくれませんか」
他の女性に取られたくないとすら思う人からここまで愛されているのに、どうして逃げられるだろう────そんな思いに満たされて、胸に迫る愛おしさの前にアンジェリークはようやく観念した。
アンジェリークの中にあった温かな感情が愛と呼ぶものであることを、ルヴァは見抜いていた。否、そう信じていたというのが正しいのかも知れない。
「……男になっててもいいだなんて言われたら、もうごめんなさいって言えなくなっちゃうわね」
そう言われたルヴァは喜びを表すように抱き締めたアンジェリークごとゆらゆらと揺れている。思わずくすりと笑みを漏らした彼女と見詰め合い、ルヴァの表情も更に緩んだ。
「あー、それを最初に言っておけば良かったんですねー。それは勿体ないことをしました」
暫くはルヴァにされるがままになっていたアンジェリークから、ぐう、とお腹の鳴る音が聞こえた。
「やだ、お腹鳴っちゃった……」
恥ずかしそうに肩を竦めるアンジェリークをひょいと抱き上げて、そのまま部屋を後にするルヴァ。
「安心したら何だかお腹がすいちゃいましたね。今日って晩ご飯は何ですか?」
そろそろ日没の時刻に差し掛かり、家の中は薄闇に包まれていた。
「茄子のトマト煮とキッシュは作ってあるわ。あとスペアリブのハーブ焼きと豆のサラダ」
アンジェリークが店番をしない日は、帰宅するなり献立を聞かれることが多くなった。どうやら楽しみにしているらしいが、こうしてそれに答えている時間も楽しいのだ。
話を聞きつつメニューを想像していたルヴァのお腹からもぐうと音が鳴り、二人は顔を見合わせて吹き出した。
キッチンに着いてアンジェリークをそっと下ろし、すかさず頬に口づけるルヴァ。
「その献立でしたら……この間買ってきたワイン、開けちゃいましょうか」
そうして、二人はワインで乾杯をしてすっかり馴染んだアンジェリークの手料理に舌鼓を打ち、幸せに満ちた夜が更けていった。
片付けも終わり後は眠るだけという頃になって、浴室から出てきたルヴァはアンジェリークがいないことに気づいた。
タオルでがしがしと頭を拭きながら、ルヴァはなんとなく彼女がいるような気がしてテラスへと足を運ぶ。
今夜は満月で、辺りはいつぞやよりもかなり明るい。予想通りアンジェリークはそこにいたが、月明かりの下でふうわりと長い髪やシルクの裾を風に揺らしてじっと佇むアンジェリークに見蕩れ、暫しの間声をかけそびれていた。
「アンジェ、風邪をひきますよ。……それ、着てくれたんですね」
ようやく声をかけると振り向いた翠の瞳が笑みの形になり、こくりと小さく頷いたアンジェリークの腰にそっと腕を回し、ルヴァも月を見上げた。
無言の時間が流れ、ルヴァはふと思いついた質問を口にした。
「どうして主星で私を待とうと思ったんですか」
考えてみればおかしな話だった。退任後は生まれ故郷に帰ると予測するほうがむしろ自然なのだ。
ぱちぱちと長いまつ毛を瞬かせて、アンジェリークが口を開く。
「……わたしの片思いだったから、想っているだけで良かったの。いつか逢えたらいいなとは思っていたわ」
ふわふわの金の髪を指先で梳いて、柔らかに月の光を弾くさまを見つめた。
「私が来ないかも知れないのに?」
ルヴァの腕にアンジェリークの両手が重なった。
「自分でも良く分からないの……ルヴァだったら、あの本に気づいてくれるって思ってはいたんだけど……追いかけてきて欲しかったのかも知れないわね、こんなふうに」
こんなふうに過ごす夢を幾度見ていただろう、とアンジェリークはふと思い返す。
だが次の瞬間、ルヴァの口から紡がれた言葉に凍り付く。
「それなのに、時間が経てばいずれあなたに飽きるかのように思っていたんですか」
穏やかな声の中に含まれた微かな怒りに、アンジェリークはびくりと身を震わせた。
「そ、れは」
「店番を始めてあなたからの信用を勝ち得ようとしていたのに、内心ではそう思っていたんでしょう?」
「…………」
図星だった。若い人たちと並ぶことで否応にも比較され、彼の熱もそのうち冷めるだろうと心のどこかで思っていたのは事実だった。
「自分で言うのもおこがましいですが、知識と知恵が専門の私を誤魔化しきれると思っていたのでしたら────大きな間違いですよ、アンジェ」
淡々と話しながらアンジェリークの手のひらを指先でするりと撫でた。艶っぽさが滲み出た、掠る程度の触れ方にぞくりと肌が粟立つアンジェリーク。
「そうやって人を試すのは良くないですよ。もうしないで下さいね」
「ごめんなさい……っ」
ルヴァの片手がうなじから這い上がり、耳朶を優しくなぞっていく。
「っん……だ、めだったら……もぉ」
アンジェリークがくすぐったさに身を捩りながら何故か自然に漏れ出る声を片手で押さえたとき、ルヴァが彼女の身体を抱きかかえ、ラグの上にそっと横たえた。
「あのですね、アンジェ。今まで敢えて言わずにいたんですけど」