花、一輪
再会
聖地を出たルヴァはゼフェルに貰ったメモを頼りに、主星の中でも僻地にあるアンジェリークの家を探し始めた。
(えーと……住所によれば恐らくこの辺りだと思うんですが……)
辺りをきょろきょろと見渡してみれば、そこは田園風景が広がるのどかな田舎町だ。活発だったアンジェリークが住むには些か静かすぎるような気もする。
だがやがて彼女がこの土地を選んだ理由が、否応にも分かってしまった。
抜けるような青空の下に広がる花畑を眺めつつ一本道をのんびりと歩いていくと、レンガ造りの家々が立ち並ぶ集落に出た。
集落に出るまでの景色は、どこか聖地を彷彿とさせた。鳥籠のようなあの場所も、彼女にとっては第二の故郷となっていたのだろうか────つらつらとそんなことを考えていると、ふいに爽やかなレモンの香りが漂ってきた。
香りにつられ何とはなしに風上のほうへと視線を向ける。大型のテラコッタ鉢に植えられたさほど高さはないがたわわに実をぶら下げたレモンの木が数本置いてあり、そこにはかなり適当に剪定をしている初老の男がいた。
黒に半分ほど白が混じった長い髪を後ろで一つに束ねていた。上背もありよく日に焼けている。配色こそ違うがシルエットだけで見れば先代の緑の守護聖の背格好に少し似ていて、ルヴァはつい眺め入った。
男は手にした剪定ばさみでレモンを幾つか切り離して小さな手籠に放り込み、奥の建物のほうへ向かって声を張り上げた。
「おーい、レモンはこんくらいでいいのかい? アンジェリーク!」
その名前に、どきりと心臓が跳ねた。
他人をジロジロと見るのは不躾だとその場から離れようにも、足が凍ったように動かなくなって立ち竦んだ。
確かめたいのだ。「アンジェリーク」と呼ばれた人の姿を。
ルヴァはどくどくと脈打つ胸を押さえ、そっと様子を伺う。
建物の中庭に面したところに、「アンジェリーク」はいるようだった。
聞こえないのか、とか何とか呟いた男が剪定鋏を置いて中庭へ歩いていく。
「アンジェリーク……どうした、大丈夫か?」
とても心配そうな男の声に、ルヴァまでもが思わず困り顔になってしまう。
「ええ、大丈夫よ。ごめんなさいね、最近膝が痛いものだから……」
鈴の音を思わせる特徴的な声音。他に間違えようのない、余りに聞き慣れた懐かしい声に胸が震えた。
(アンジェリーク……!)
気付けば手にした荷物を放り出し、彼女の声のするほうへと近づいていた。
レンガが敷き詰められた通り道を渡るとその先に先ほどの男が片膝をついていて、すぐ横に白いチェアに座るアンジェリークがいた。
初老の男との会話が耳に届いてくる。
「だからあんまり遠出するなって皆言ってるだろう。あんたのとこの店番を使っときゃいいんだよ、こんな用事なんか……」
言いながら男の視線が突如現れたルヴァを捉えた。かなり訝し気な表情をしていたが、ルヴァはそちらへは一瞥もせずにアンジェリークだけを食い入るように見つめ、叫んだ。
「……アンジェ!」
このときルヴァはどうして彼女の名を愛称で呼んだのか、自分でもよく分かっていなかった。
愛称で呼んでいたのはもうずっとずっと昔の、彼女がまだ女王候補だった頃の話だというのに。
陽光を弾いていた金の髪や白い肌はやや艶を失くしていたものの、かつての雰囲気は健在だった。驚きで見開かれた翠の瞳には活発さよりも年相応の穏やかさが勝っており、それは気品ある佇まいと合わせてこちらでの暮らしぶりが十分に安泰だったことが窺えた。
「……ル、ヴァ」
困惑が多分に含まれた声色ではあったが、こんな突然の訪問にそうなるのも無理はないと思えた。それよりも彼女の唇から発された自分の名が思いの外甘く響いて堪らない。
「アンジェリーク、あなたに逢いに来たんです。あなたからのね、そう、これ……これを見つけました」
ルヴァはいそいそとポケットから例のミニチュアブックの入った封筒を取り出して見せた。その瞬間、アンジェリークの顔が強張る。
それまで二人のやり取りを黙って見ていた男が口を挟んだ。
「知り合いなのか?」
アンジェリークはぎこちなく微笑みながら、男のほうを見ていた。
「え、ええ……親戚の子なの。遠い星でお勤めしてると思ってたからびっくりしちゃったわ、急に来るんだもの」
親戚の子────さすがにこれは想定外だった。
もはや友人としてですら紹介されない事実に衝撃を受けつつも、咄嗟に調子を合わせた。
「すみません、事前に連絡する時間がなくて……ルヴァです、いつもアンジェリークがお世話になっています」
「ガーラントだ。彼女はうちの果樹園の上得意様さ。そこのレモンはオマケ用に配ってる」
どうやらそれなりに親しい間柄らしい男と笑顔で握手を交わして、ルヴァはある提案を持ちかけた。
「あの、先ほど膝が痛いって言ってましたよね? 私が送って行きますよ」
ルヴァの申し出にぎょっとした顔で首を横に振るアンジェリーク。
「あ、いえあの、大丈夫よ。そんなに酷くはないから……一人で帰れます」
慌てた様子でレモンが山盛りに入った手籠を片手によろよろと歩き出そうとするアンジェリークを、二人がかりで引き留めた。ガーラントが彼女の手から籠を取り上げて諭す。
「何言ってるんだ、さっきは動けなくなってただろう。どうせならおぶって貰えよ、その足で無理するな」
「そうですよアンジェリーク。さあ」
ルヴァがしゃがみこんで促すと、暫くしておずおずとアンジェリークがおぶさってきて、柑橘類特有の香りが鼻腔をくすぐる。だがルヴァはアンジェリークの羽のような軽さに酷く驚いていた。
「その籠は持っていられますか?」
「……ええ」