花、一輪
その後は穏やかに一日が終わり、オルヴァルは業務の終わりがけに自分の部屋からお気に入りらしいワインを二本手にして戻ってきて、二人は早速アンジェリークの待つ家へと向かう。
「赤と白、どっちもオススメなんで両方開けちゃいましょうよ。ちょっとは飲めるんでしょ?」
にこにこと嬉しそうな様子のオルヴァルに、ルヴァの頬も自然と上がった。
「私はそれほど強くないですが、お付き合いしますよー」
そんな短いやり取りの間に玄関前へと到着し、ルヴァが扉を開けてオルヴァルを促す。
オルヴァルがふと靴を脱ぎ始めたルヴァの足元へと視線を落とし、目を丸くさせていた。
「……へえー、ふーん」
そのままルヴァの顔を見て、オルヴァルはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。
「な、なんですか」
少し困ったふうに眉尻を下げたルヴァがそう問うと、肩を竦めて両手を上げて見せた。
「いかにも新婚ですよね、足元」
意図的にお揃いにしたスリッパのことを言われ、ルヴァの頬がさっと紅潮していく。
「べ、別にいいじゃありませんかー、誰かに迷惑をかけているわけではないんですから……」
「悪いだなんて言ってませんよ。なんかそういうところ可愛いなーって思っただけです」
オルヴァルはそう言うとくすりと口の端を上げて、アンジェリークのいるキッチンへと歩いて行った。
「アンジェリーク、ワイン持ってきたよー」
オルヴァルに声をかけられたアンジェリークが、両手にミトンをはめた姿で振り返る。
「あら、お疲れさま。もうそんな時間になっちゃってた? ちょっと待ってね、もう少しかかるかも」
「なんか手伝おうか?」
慣れた様子でアンジェリークの隣に立ち、何を作っているのか覗き込んでいる。
「テーブルセッティングがまだ全然なの、お願いできるかしら」
「分かった。先にグラスとカトラリー出しておくね。他には?」
アンジェリークはばたばたと慌ただしくオーブンの様子を見に行って、近くに来たルヴァへ「お帰りなさい」と優しい笑みを浮かべて、そこで何かを思い出したようにあっと声を出した。
「そうだわ、バゲットも切ってなかった!」
その言葉にはルヴァがこくりと頷く。
「ではそちらは私がやりましょうかねー」
横目でちらりとオルヴァルのほうへと視線を流すとオルヴァルもまたこちらへと視線を向けていて、二人のまなざしが交錯した。
ふっと目を細めて笑ったオルヴァルが一度も彼女に場所を問うことなくさっさとグラスとカトラリーを出し、すぐにアンジェリークの隣へ並び立つ。
何となくではあったが、どこか張り合われている感覚がする────と、ルヴァはざわめき立つ胸の内を隠すように視線を逸らした。
そして、三人でテーブルを囲む楽しい時間は瞬く間に過ぎてゆく。
オルヴァルがまだ飲み足りないからと白ワインを二本追加した後、アンジェリークとルヴァはすっかり酔い潰れてしまっていた。
テーブルに突っ伏してすうすうと眠り始めた二人を横目に、オルヴァルは淡々と片付け始めた。
その片付けも間もなく終わり、手持無沙汰になった彼が赤ら顔のまま眠りこけているルヴァを揺する。
「……ルヴァさん起きてー、アンジェリークをベッドに運んであげないとー」
しかしどれだけ揺すってみても、ルヴァは起きる気配がない。やむなくアンジェリークの肩を揺すってみるものの、こちらもすっかり眠っていた。
「アンジェリークもほら、起きてー。ちゃんとベッドで寝よう? 風邪ひいちゃうよ」
ぺしぺしと二人の頬を叩いてみても全く起きる気配がない。オルヴァルは頭を掻いて暫し考え込んだ後、ふうとひとつため息をついた。
「……あーあ、もう。じゃあオレが運んでいくからね」
ひょいとアンジェリークを横抱きにして、すたすたと寝室へと向かった。
ベッドへ寝かせたとき、ふと彼女の手がオルヴァルの服を掴んでいるのに気づいて苦笑する。
「…………たい……」
目を閉じたまま小さな唇から呟きが漏れ聞こえて、オルヴァルはそっと耳を寄せる。
「どうしたの、アンジェリーク」
「……おみずのみたい……」
「お水飲みたいの? 今持ってくるから、ちょっと待ってて」
そして水差しとグラスをトレイに乗せて戻ってきたオルヴァル。
キッチンに戻ったついでにもう一度ルヴァを起こそうとしてみたが、まだ気持ち良さげに寝息を立てていたため、彼の近くにもグラスに水を注いで置いてきた。
「持ってきたよ、お水……っておい」
彼女もまたほんのり笑みを浮かべて幸せそうに眠っている。
「アンジェリーク、起きて。ちょっとでいいからお水飲もうよ、ね? そのまま寝たら明日辛くなるよ」
抱き起こしてそう呼びかけてみたが、はっきりとした反応がない。
腕の中で無防備な寝顔を晒している彼女にじっと視線を縫い止めていると、切ない痛みが胸を刺す。
その痛みを振り切るように、オルヴァルはグラスに注いだ水をゆっくり口に含む。
今からしようとしていることへ少しの躊躇いと罪悪感を瞳に宿しながら、アンジェリークの顎を上向かせ、そっと唇を重ねた。
少しずつアンジェリークの口の中へ水を移していくと、やがてこくこくと喉が動いた。
顔を離しても濡れた唇から視線を逸らせずにいるうち、彼女の表情がふにゃりと崩れた。
「ねえ、その顔は反則でしょ……ズルいなあ」
呟きの陰に潜む欲望には既に火がついていた。
オルヴァルはもう一度口移しで水を飲ませて、彼女がすっかり水を飲み干しても今度は唇を離さなかった。
彼の舌先が大胆にアンジェリークの口内を探り始めた頃に彼女のほうからもおずおずと舌を絡めてきて、オルヴァルの中で先程感じていた罪悪感が跡形もなく消し飛んだ。
そのまま貪るような口づけが続き、ようやく二人の唇が離れてアンジェリークがぽつりと囁いた。
「ん……ルヴァのちゅう……きもちい……」
余程眠いのだろう、目を開けることなくいつもより少し高めの囁き声が耳に心地いいのと同時に、燻る欲望が更に煽られてしまう。
「へー、オレをあの人だと思ってるんだ……まあいいや、それでも」
どうせ今夜中には終わる泡沫の夢だ────このまま一夜の夢として彼女の記憶の中から綺麗さっぱり消え去ればいい。こちらには背徳に塗れた甘い記憶だけが残るのだから。
アンジェリークよりも少し深い翠色の瞳が愁いにけぶる。
「キス、気持ちいいの? じゃあもっとしようか……」
彼女のすべらかな頬から耳朶へと指を這わせ、身じろぐアンジェリークの頭を押さえつけるようにして唇を舐った。
酔い潰れた隙をついての愚挙。それは本人の同意なく行われたいわば暴行でしかなかったが、彼にとってはむしろそのほうが都合が良かった。
行為が一方的であればあるほど、彼女に受け入れて貰えなかった理由を思い知るのだ────こんなことをやらかすような男だから、彼女は今まで一度も自分と酒を飲まなかったのだ、と。