花、一輪
それなのに今、彼女は混濁する意識下で自分を想い人と間違えて、腕の中で気持ち良さそうに口づけに応えている。こんなことはもう止めなくてはならないと頭の片隅では分かっているのに、彼女から発せられる甘さの混じった吐息に彼の欲望が頭をもたげ、早くその先へ進めと促していて理性だけでは既にどうにもならないのだ。
やがてオルヴァルの耳にふと衣擦れの音が聞こえて、ぎくりと体に緊張が走った。
あれだけ酔っていれば千鳥足にもなるだろう、壁にもたれながら歩いているような音が壁を伝い、徐々にこちらへ近づいてくる。
部屋の扉は半分ほど開け放ったままだ。彼がひょいと顔を覗かせれば、自分が何をしているのかすぐに見えてしまう。
離れるなら今しかない。そっと離れて、あなたが来るまで吐いたりしないように見ていた、とでも言えばいい。あのお人好しの彼ならその言葉を信じるだろう、それがどんなに疑わしくとも。
だがこのときオルヴァルの手はアンジェリークを離そうとはしなかった。
水差しからグラスにどぼどぼと水を注ぎ、ふにゃふにゃと小さく何かを呟いている彼女を見つめた。
「アンジェリーク、もうちょっとお水飲んでおこうね」
そう言ってグラスの水をあおったオルヴァルの瞳に、挑発的な色が浮かんだ。
彼はもうすぐそこまで来ている────ふらついた足取りで今頃のこのこと現れて、この状況に一体どんな顔をするんだろう。守護聖だか何だか知らないが、一番長く一緒にいたのは、隣にいたのは誰なのか、よくよく思い知ればいい────そんな思いに駆られて再び口づけて水を飲ませるオルヴァルだったが、今度は彼女の飲む速度を超えて、唇から溢れた水はアンジェリークのブラウスに吸い込まれていく。
「……あーあ、零れちゃった。着替えたほうがいいよね?」
顎や首筋を伝う水滴を唇で吸い取り、オルヴァルの手が所々濡れて薄く透けたブラウスの釦にかかる。
半分眠っているアンジェリークからの抵抗はない。そのまますんなりと胸元がはだけられ、下着の上から指先で引っ掻くと明らかに艶めいた声が聞こえた。
決して大きくはないその声が上がった瞬間、衣擦れの音が止んだ────どうやら彼の耳に届いたらしいと判断して、オルヴァルの指はもう一度同じ個所を往復する。
びくりと反応したアンジェリークが小さく喘いだのを隠すように、穏やかな彼の声が響いた。
「もうその辺にしてくれませんか、オルヴァル」
オルヴァルは声のした入口へとゆっくり顔を向けた。
ルヴァは片腕を壁につけてふらつく体を支えながらも、表情はいつも通りのポーカーフェイスだった。
それがオルヴァルの中に大きな苛立ちをもたらして、無言でルヴァを睨みつける。
時間にしてみればごく僅かな間だったが、二人の視線がかち合う場所から火花が起きそうな、それなのに凍てついた空気が部屋中を満たす。
ルヴァはきっちりと上まで留めてあったシャツの釦を幾つか外して寛げると、ひとつため息をついてから口角を上げた。
「二人して面倒をお掛けしてすみませんでしたね、それ以上の介抱は結構ですよ。あぁそうそう、私にもお水をありがとうございました」
そう言ってにこやかに近付いてきたルヴァが、ベッドの上で未だにアンジェリークを抱きかかえているオルヴァルの腕をがしりと掴んだ。
「……ちょっとお話したいので、出て貰えますか」
ルヴァの有無を言わせないまなざしに見下ろされ、オルヴァルはほんの少したじろいだものの、いつものようにつまらなさそうに両眉を上げた。
「分かりましたよ。アンジェリークを寝かせるからちょっと待っ────」
「結構です、と言ったでしょう? 早くこの部屋から出て下さい」
普段なら滅多に人の話を遮らないルヴァがオルヴァルの返事を待たずに発した言葉ゆえに語感はかなりきつく聞こえたが、その声音はいつもより静かだった。それはすやすやと寝入るアンジェリークを起こしてしまわないようにという、彼の配慮なのかもしれない────と考えながら、オルヴァルはそっと部屋を出た。
後ろ手に扉を閉めて、すぐ横の壁に背を預けてずるずると崩れるように座り込む。
間もなくしてルヴァが出てくる気配がしても、オルヴァルは項垂れたまま顔を上げられずにいた。
ふうと長いため息が聞こえて、ルヴァの声が上から降ってくる。
「……お待たせしました。テラスでお話しましょうか……」
二人は月明かりに照らされたテラスへと移動して、靴を脱ぎ捨てたオルヴァルがラグの上で膝を抱えた。
「ほんとは帰ったほうがいいんでしょうけど、収まるまでいさせて。ちょっとその、まだ落ち着かなくて」
先程の睨みを利かせていた彼とは大違いの恥ずかし気な表情は実年齢よりもかなり幼く見えて、毒気を抜かれるルヴァ。
「いいんですよ、そういうこともありますよね……ちょっと魔がさしただけなんでしょう?」
優しく諭すその声には棘が感じられない。アンジェリークはこの人のことを「理性的でお人好しのとても優しい人」だと言っていたけれど、それにしたって限度があるんじゃないのか、とオルヴァルは首を捻る。
「……なんで怒らないんですか。あなたの恋人を襲ってたってのに」
ルヴァとしては、怒りたいと言えば確かに怒りたかった。前後不覚に酔い潰れた恋人を弄んでくれるな、と言ってやりたかった。数分前までは。
「正直に言って怒りたかったですよ、ついさっきまではね。でもあなたが長年あの人を好いていたのは、紛れもない事実ですから……あの場面では致し方ないのだと思います」
オルヴァルから見れば、ルヴァは後から来た邪魔者でしかない。いきなり横から掻っ攫われた心境だろうことは、ルヴァにとって想像に難くない話だった。
「オレは謝りませんよ。悪いことしたなんて思ってないし……それにたぶんアンジェリークのほうはキスの相手がオレだって気づいてないし」
オルヴァルは膝の上に顎を乗せた姿勢で唇を突き出し、不貞腐れた表情を見せた。そんな彼の仕草に困ったような笑みを浮かべるルヴァ。
「いいですよ、それで……今回はお酒の席での失敗として、お互い忘れましょう。ですが次はありませんので、よく覚えていて下さい。いいですか、二度目はなし、ですよ」
ルヴァの言葉に小さく頷いて、オルヴァルは言葉を返す。
「誓って言うけど、アンジェリークはオレがどんなに誘っても、一回も一緒に飲んだことないんですよ。だからさっきのは最初で最後。もうしません……キスの感触だけは忘れないけど」
最後の言葉を聞き、ルヴァは微かに眉根を寄せた。
「困りましたねえ。してしまったことは取り消せませんが、そのようなことを今後も覚えておかれてはね……うーん」
顎に手を宛がって小さく口の中で何かを呟き考え込むルヴァへ、オルヴァルは不思議そうに首を傾げていた。
「……仕方がありませんね。お仕置きを受けて貰いましょうか」
明るい庭をぼんやりと眺めていたオルヴァルの顔に影がさした。
「はっ? お仕置きって……え、ちょっ、待っ……!」
視線を上げて驚いたオルヴァルが逃げ出すよりも一足早く、頭をがしっとルヴァの両手に押さえられてしまった。