花、一輪
どうにかして逃れようとしても、ルヴァの手は金の髪を強く掴んでいて身動きが取れない。
月の光から逃げているかのように室内に伸びた二人のシルエットは今、一塊になっている。
どうかここでアンジェリークが起きてきませんように、こんなところを見られませんように、とオルヴァルは必死で祈った。
ようやく解放された後、オルヴァルが物凄い勢いで洗面所へと走り去っていくのを横目に捉えながら、ルヴァのほうもまた手の甲でぐいと口元を拭う。
そしてオルヴァルが酷く悔しそうに下唇を噛み締めて、ヨロヨロと戻ってきた。
「…………なんでこんなことするんですか。あんた鬼ですか」
すっかりと涙目になりしょげ返っている彼へ、ルヴァから平然と放たれた一言が更に追い打ちをかけた。
「お仕置きなんですから、酷くなければ意味がありませんよ」
酷い、というオルヴァルの呟きには聞こえないふりをした。
「それにしたって体張りすぎじゃないですか。オ、オレの大事な思い出がああああああ」
更に悔しそうにラグの上を転がるオルヴァルを視線だけは冷ややかに見下ろして、ルヴァはにっこりと微笑む。
「あの人との口づけを思い出そうとすれば、今しがたの行為まで紐付きの記憶になったはずです。これでいかがわしい想像もできませんね?」
敢えて下品な言い回しで表現するならば「いざオカズにしようとしても要らない記憶までもが一緒に蘇ってしまう」という、彼にとっては実に可哀想な話である。
その後もぶちぶちと続いたオルヴァルの文句をさらりと適当に聞き流し、ルヴァは寝室へと戻ってきた。
オルヴァルが退出した後、中途半端にはだけていた彼女のブラウスの釦を全て外して脱がせ、薄い羽根布団をしっかりと掛けておいたのだった。
寝かせたときのまま横を向いて静かに寝息を立てているアンジェリークの寝顔を眺めて、今でも残るあどけなさにくすりと笑みを零す。
柔らかく波打つ金の髪を撫でると、彼女の小さな手がルヴァの指先をきゅっと掴んだ。
「……アンジェ?」
薄目が開いてルヴァと目が合い、ゆるゆると頬が上がる。
「ルヴァ、ちゅうして。さっきの……」
”さっきのちゅう”がオルヴァルとの口づけだということに辿りつき、嫉妬の痛みが鋭く胸を抉った。
思わず水差しに残っていた水をグラスで一気にあおり、ふいに蘇る先ほどの不快な感覚を消しにかかった。オルヴァルへの体を張った妨害工作はルヴァにとっても大打撃だ。
彼女の横へ滑り込んで上からアンジェリークを見つめると、すぐに細い腕が首の後ろに回された。
その瞬間ふわりと鼻先に届く甘い香り────強く香っているわけでもないのに頭の芯が痺れるような形容し難い香りが、くらくらと眩暈を引き起こす。
アルコールによる浮遊感や高揚感ともまた違う”酔い”に満たされたくて、ルヴァは香りの元を探る。
アンジェリークの耳の裏、首筋、顎のラインを唇でそうっと辿るうちに、その動きはやがてはっきりと愛撫の意味を伴い始めてくる。
今の自分を例えるなら花に集う虫だろうか、などと下らないことを考えながら指の腹で唇の形をなぞったのを合図に、アンジェリークの目が閉じられていく。長いまつ毛が少し震えているのが見えて、愛おしくて堪らない。
啄むような軽い口づけをきっかけにして少しずつ深く求め合った。唇を割り舌を絡ませると鼻にかかった甘い声が吐息に乗ってきて、ルヴァはその声をもっと聴きたくて口づけを強請ってしまう。
オルヴァルに触れられていた箇所は少し執拗に攻め過ぎたかも知れない。アンジェリークはされるがままに幾度も身体を跳ねさせては、泣き声とも悲鳴ともつかぬ声を上げていた。
すっかり上気した頬で短く浅い呼吸を繰り返して、潤んだ翠の瞳がじっとルヴァを見つめている。
口づけから先、ルヴァが触れた場所と言えば上半身だけだ。本当に欲しいのはその先の話だったが、未経験のまま閉経したとあっては相当の気遣いが必要になるだろう。酔った勢いに任せるには乱暴すぎる、とルヴァは考えていた。
それでもかたくなだった彼女がこうして蕩けた顔をして、好き放題触れるのを許してくれている現状が嬉しくて仕方がない。自分は許されている────ただその一言に尽きた。
愛し愛される時間が与えられた喜びに、ルヴァは泣いてしまいそうだった。
そっと彼女の首元へと顔を埋めて、喉の奥から強くせり上がる痛みが治まるまで下唇を噛み締めていたお陰で、彼は暫くの間まともに声を出せなかった。
「ありがとう、アンジェ……今日はもう遅いですし、休みましょうか」
ようやく発されたルヴァの言葉にどこか安堵した様子のアンジェリーク。やはり少し怖がらせてしまったのだろう、明日は酔いに任せてではないのだと教えよう、と彼は密かに思った。
そうしてそろりと身を寄せてきたアンジェリークの首の下へと腕を回して、ふわふわと軽やかな髪に指を絡ませながら眠りについた。