花、一輪
私の心は永遠にあなたのもの
翌朝、アンジェリークは外から聞こえてくる小鳥たちのかしましいお喋りで目を覚ました。
ふわあと大きな欠伸をひとつしてゆっくりと伸びをするものの、いつものすがすがしい目覚めとは程遠いだるさに身を起こすのも億劫だ。
そのままカーテン越しに飛び回る小鳥の陰を目で追ってぼうっとしていると、隣からもふわあと大欠伸の声がしたのでアンジェリークはルヴァのほうへと体を反転させた。
ルヴァは眠そうに目を擦り、それからアンジェリークと目が合うと優しい笑みを浮かべる。
「おはようございます、アンジェ……昨晩は二人とも飲み過ぎてしまいましたねえ。体調は大丈夫ですか? あのう……昨日のことは、覚えてますか」
「おはよう、ルヴァ……昨日は飲んでる途中で眠くて寝ちゃった辺りまでは覚えてるわ。いつここに来たのかしら……それになんか頭痛い……」
眠る直前の戯れのことは少しだけ記憶にあったが、それを言うには恥ずかしすぎた。
「二日酔いに効くお薬がないか、ちょっと見てきましょう」
そう言ってトレイを持ってすたすたと部屋を出ていく彼を見送り、何故か枕元から床へと無造作に垂れ下がっているターバンを手繰り寄せた。
テーブルのほんのりと冷たい木の質感が妙に心地良かったことは覚えていた。そのまま突っ伏してからの記憶を思い出してみようとしても、すっぽりと綺麗に抜け落ちていて思い出せそうな感じが全くない。胃は鉛のように重かったが嘔吐した様子も特にない。
すぐにルヴァが戻ってきて、先ほど持って行ったトレイには薬と水の入ったグラスが載っていた。
「空腹時でも大丈夫なものでしたから、これを飲んでおきましょうねー。今日はゆっくり横になっていて下さい」
手渡された錠剤を口に放り込み、水で流し込んだ。冷たい水が渇きを訴えていた喉を潤していく。
「ありがとう。ねえルヴァ、昨日はわたしをここまで運んでくれたんでしょう?」
アンジェリークの言葉に、ルヴァは即答せずにじいっと彼女の瞳を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「ええ、そうですが……どうしたんです?」
どこか探るようなまなざしに気圧され、なんとなく目を逸らしてしまうアンジェリーク。
「ううん、あの……重かったかなって思って……」
きょとんと丸く目を見開いたルヴァが吹き出したのは、それからすぐのことだった。
身支度を整えたルヴァが心配そうな顔で横になったままのアンジェリークの髪を撫でた。
「では私はお店へ行ってきますから、今日はちゃんと休んでいて下さいね。ちょっと良くなったからといってあちこち動き回っちゃだめですよー」
具合の悪い彼女が用を足す以外にはいちいち部屋を出なくてもいいようにと、サイドテーブルの上は常温可の飲み物、食べ物で一杯になっていた。
嬉しいけれどこの人は一体どこまで甘やかそうというんだろう、とアンジェリークが苦笑いで呆れた声を出す。
「ただの二日酔いなのに……」
「病気かどうかはこの場合問題ではないんですよ、アンジェ。具合が悪いのならきちんと休まなくてはいけません」
アンジェリークが時計をちらりと確認すると、もうあと十分足らずで開店時間だ。まだ何か足りないものはないかとベッドの周囲をうろついているルヴァを、一刻も早く送り出さなくてはならない。
「分かりました。ちゃんと休みますから……早くお店に行って頂戴」
時計を指差した途端、ルヴァは大慌てで店へと向かった。
勢いよくドアを開けたせいでドアベルががちゃがちゃと喧しい音を奏で、それに驚いたオルヴァルがぎょっと振り返った。
「す、すみませんオルヴァル、遅刻寸前になってしまいましたー!」
「ああ……別に平気ですよ。今日は二人ともダウンするかなって思ってたんで」
オルヴァルの少し刺々しい不機嫌な声音に、これは”お仕置き”が効果覿面過ぎたかと思いながら声をかけた。
「昨晩はご迷惑をお掛けしましたね。アンジェはやはり記憶がなかったので、私が寝室まで運んだことにしておきましたよ」
掃除道具をしまいながら話を聞いていたオルヴァルの動きがそこで止まり、感情のない翠の目がルヴァを捉えた。
アンジェリークが覚えていないのならそれでいい。そのほうがいい────そう思ってはいても、敢えて念押しをされれば気持ちはささくれ立つ。
「…………なに、口裏合わせろってこと?」
「では昨夜の出来事をつまびらかに伝えますか?」
ルヴァの真剣なまなざしは「言えるものなら言ってみろ」と告げていた。
オルヴァルはそこで初めて、彼の発言の真意を把握した。単なる口裏合わせなどという話ではなく、これは純然たる警告なのだと。
それには言葉を返すことなく、オルヴァルはただ肩を竦めて見せてから了解の意を示して頷いた。
「……今日の店番はオレ一人で間に合いますから、ちょっとサンノヘイユにあるダシエってお店に行ってきてくれませんか」
サンノヘイユは以前アンジェリークと二人で歩いた町だが、言われた店名に覚えがない。
「はあ、行くのは構いませんが……どういうお店なんです?」
扉に掛けられた”本日終了”と書かれた札を裏返し、”営業中”に切り替えるオルヴァル。
「行けば分かりますよ。買うものは何でもいいですが、ルヴァさんの自腹です」
ニイ、と口の端を上げたオルヴァルへ、怪訝そうな表情を浮かべたルヴァが間の抜けた返事をした。
「へっ?」
「アンジェリークが喜びそうなものを買ってきて下さい。何が必要かは、あなたなら分かるはずです」
それからルヴァは言われるがままに店を出て、のんびりとサンノヘイユへ続く田舎道を歩いた。
朝方は紗を透かしたような薄曇りだったが、今はすっきりとした青空に筆でしゅっと描いたみたいに細い雲が数本見える。
(アンジェリークが喜びそうなもの。ダシエにはそれが色々置いてあるんでしょうかねぇ……一体何のことやら)
小さな肩掛け鞄には書庫の本を一冊入れてきた。帰りは馬車の中でゆっくりと読書に勤しむつもりで。
前にアンジェリークと行ったとき、街角に古書店が何件か軒を連ねていたのは確認済みだ。今日はついでにそこも覗いてこよう────と、頭の中であれやこれや予定を立てているうちにサンノヘイユまで辿り着いた。
この歴史ある城塞都市サンノヘイユは現在歴史地区として世界遺産認定されており、周辺地域も含めて景観保全特区であるために、燃料を必要とする車両は周辺の田畑に悪影響を及ぼす点、燃料を必要としないエアカーなどは景観にそぐわないという観点から、エアカーを含めた車両、軽車両の乗り入れは原則として禁止されている。基本的には郊外に車両を置き、そこからエアバス、エアタクシーのどちらかで訪れることができるが、馬車だけはこの城塞都市が造られた頃の乗り物であったために規制がなく、現在でもこの辺りでは馬か馬車が主な移動手段になっている。アンジェリークの店も旧街道沿いで、事前に申請しなければ店内の改装を行うことはできない。外観に至っては修復保全が義務付けられ、当然ながらペンキで塗りたくることすら厳禁だ。