花、一輪
その後幾枚かの秘蔵水着写真を見せられたルヴァは、ふらつく足取りで帰宅する羽目になった。
玄関扉を開けてただいまと言いかけて、先ほどの水着姿が脳内をよぎりブンブンと首を振った。
オルヴァルが撮影したものは表情からポージングに至るまで、全てごく自然体で健康的な範疇だ。だが体を覆う面積自体は実質下着と変わらないため、グラビアなどの類に疎いルヴァには刺激が強かったようである。
ひとまず落ち着こうと冷蔵庫で冷やしておいた紅茶で喉を潤していたところへ小さな足音が近付いてきて、そちらへ目を向けたルヴァの頬は再び赤くなった。
今しがた彼の脳内で起こっていたことなど露知らず、機嫌の良さそうなアンジェリーク。
「お疲れさま、ルヴァ。お店は大丈夫だった?」
「え……あー、たぶん大丈夫だったと思いますよ。実はオルヴァルに店番をお任せして、私はサンノヘイユに行ってきたんです。それよりも体調はどうですか、顔色は今朝より幾分かいいようですが」
心配そうに頬を両手で挟み、アンジェリークの翠の瞳をじいっと見つめた。彼女のほうもまた、ルヴァの視線を受けて口元を緩ませた。
「ええ、もう平気よ」
肩掛けの鞄から小さな手提げ袋を取り出して、その中の包みをアンジェリークの前に差し出した。
「あの……これをね、あなたにと思いまして。気に入ってくれるといいんですが」
緊張した面持ちのルヴァが落ち着きなく視線をさまよわせ、唇を真一文字に引き結ぶ。
「なにかしら、開けていい?」
包みを開けて中を見たアンジェリークが大きな目を更に見開いて驚き、それから視線をルヴァへと移した。
「これ……わたしが貰ってもいいの?」
ケースの中にはシトリンのネックレスと揃いのピアスがセットになっていた。
嬉しそうなアンジェリークの反応にほっとしたが、やはり少し照れ臭い。
「以前のものと似た形でいいのがあって良かったです。どうぞ貰って下さい」
その言葉にアンジェリークの顔にゆるゆると笑みが浮かんだのを見てルヴァは安堵のため息を漏らし、それから口角を上げて頷いた。
「つけてみますか?」
ケースからネックレスを取り出して彼女の背後に回る。
彼女が髪をそっと片側に纏めたときにまたしても白いうなじに視線が行ってしまい、指先が微かに震えた。
金の金具はアンジェリークの白い肌にとてもよく映えていて美しい。
あの店員やアンジェリーク本人が言う通り、こうして身に付けた姿を目の当たりにすると確かに年代によって相応しい装いは変わってくるのだと実感する。それは男性にも当てはまる話なのだが、女性のほうがより顕著な気もした。
思わずこのうなじに唇を押し当てて腕の中に閉じ込めてしまいたくなったが、怖がらせてはいけないと衝動を抑え込んだ。だが知らず知らずのうちに近付いていたらしく、振り返ったアンジェリークの瞳に引き寄せられてそのまま唇を重ね合わせた。
「似合っていますね。とても綺麗ですよ、アンジェ」
掠る程度に離れただけの唇から紡がれた言葉に、うっとりと口づけの余韻を残している翠の眼差しが弧を描いた。
「ありがとうルヴァ……」
アンジェリークはそれから言葉を詰まらせて、自然に潤み始めた瞳を隠すように俯くが、すっかりと赤らんでいる頬が髪の間からはっきりと分かる。
「どうしよう、嬉しくてなんて言ったらいいか分からないわ」
溢れる喜びを表現しようと、アンジェリークはルヴァの体にぎゅうと抱き付く。
「それほど値の張るものではなかったんですけど、そんなに喜んで貰えたら私も嬉しいですねえ。ですがまだ続きがあるんですよ」
「続き?」
きょとんと小首を傾げるアンジェリークの前に、ルヴァは小箱を開けて見せた。
「アンジェ、手を」
何事かといった顔つきで恐る恐る右手を出した彼女に、ルヴァは穏やかに笑んだまま首を横に振り、左手をとった。
「……これも受け取って下さいね。一応、返品は受け付けますよ。一応ね」
薬指に填められた指輪を見て、アンジェリークは顔から零れ落ちてしまいそうなほど目を真ん丸に見開いている。
「ルヴァ、あの、これ……っ!」
それからアンジェリークの薔薇色の頬に優しい口づけと囁きがもたらされた。
「Mon coeur est a toi pour toujours.」
潤んでいた瞳から瞬く間に大粒の涙がぽろぽろと零れた。しかしそれに注がれるルヴァのまなざしは柔らかい。
”私の心は永遠にあなたのもの”────再会したばかりの頃、彼女の寝顔へ向けて呟いた想い。
アンジェリークが密やかに伝えてきた言葉への、ルヴァなりに考えあぐねた結果の返事を、今ここでようやく伝えることができた。
「私とずっと一緒にいてくれますか、アンジェ」
二人がまた分かたれてしまう日は、この先いつか必ず訪れる。それまではただ、アンジェリークの傍に居続けたいと願ってやまない。
アンジェリークの両腕がすいと伸びてきてルヴァの肩へと回され、彼女はこくこくと何度も頷いて言葉を紡ぐ。
「Oui, Avec plaisir !」
”はい、喜んで”と彼女が言い終わった直後、ルヴァは感極まった様子でアンジェリークをきつく抱き締めた。
その夜、ルヴァはアンジェリークにある提案をしようと慎重に言葉を選んで口を開いた。
「あの、アンジェ……あなたにひとつだけ確認しておきたい件があるんです」
横で神妙な顔つきをしたルヴァを見てアンジェリークも背筋を伸ばす。
「どうしたんですか?」
ルヴァの手がアンジェリークの小さな手を握る。緊張しているらしく冷たいにも関わらず妙に汗ばんでいるのが伝わってきて、アンジェリークは握りこまれた手を上向けて指を絡め、視線で次の言葉を催促した。
「ええと……そのー、そっ、その前にですね、もしかしたらとても不愉快な話かも知れないんですが、いいでしょうか」
「話して貰わなきゃ判断できないわ。たぶん大丈夫だと思いますけど」
繋いだ手に力がこもり、間もなくルヴァの口から少し上擦った声が発された。
「わ、私たちの今後の話……といいますか、あの、夜……っ、の話なんですけど」
「はい」
ルヴァはターバンをするすると外し、一旦呼吸を整える。
「私はあなたを抱きたいと思っているんです」
これはなんという直球、とアンジェリークは心で突っ込みを入れたが、顔には出さずにひとつ頷く。
「それで……もしもそのような行為が嫌でしたら我慢しますから、あなたの率直な意見を教えてくれませんか」
アンジェリークがちらと横を向くと、首まで真っ赤になったルヴァがこちらを見つめていた。
つい先日子供を持つ持たないの話をした上に、既に触れられたこともある。正直今更とも思ったが、彼のこういう真摯な性格はとても好ましく映り、自然に笑みが零れた。
「ルヴァとだったら、平気。でもちょっとだけ……怖い、かな」
「その怖さはどういう意味合いなんですか。そのう……痛みについてでしょうか」
いわゆる通過儀礼の痛みはもちろんのこと、彼女の場合はまた更に特殊な状況である。
「それもありますけど、一番は幻滅されちゃいそうで」
自信なさげな声音のアンジェリークにじっと視線を縫い止めるルヴァ。