花、一輪
「幻滅? 私があなたに対して? ……まさかそんなこと!」
ルヴァは困り顔のアンジェリークの前で、声を上げて笑い出した。
「それを言うなら私のほうが余程あなたに嫌われてしまいますよ、恐らくはかなり痛がらせてしまうでしょうから……自信がないのはお互い様です。根拠のない自信があるよりも、ずっといいじゃありませんか」
ひとしきり笑った後、ゆっくりと瞬きをしてじいっとアンジェリークの瞳を捉えた。
「……それを踏まえてね、ちょっと提案があるんです」
「なあに?」
「ええとですね、まだそういうことに慣れない内は緊張で体が強張って、痛みを感じやすいそうなんです。ですから、これから毎日お互いの肌を見て、触れて、まずは段階を踏んで慣れていくというのはどうでしょう?」
アンジェリークはそこから先の説明まで事細かに話し出そうとしたルヴァを慌てて止め、林檎色の頬を両手で隠した。
「わ、分かりましたからもうやめて。恥ずかしいってば!」
頬だけでなく潤んだ目元も押さえた彼女をそっと抱き寄せる。
上目遣いにルヴァへ視線を向けたアンジェリークは、もごもごと口ごもって再び俯いた。
「あのね、もしもの話なんだけど……どうしてもうまくできなかったら、あの……ほ、他の人としてもいいから」
ずっと以前に人体の仕組みにまつわる書物を読み漁っていて偶然得た知識で、こういったケースの場合は最奥まで辿りつけない可能性について否定できないことを、ルヴァは知っている。
それでも、とルヴァは短く息を吸い込み、きっぱりと言い放つ。
「しません。あなたを見送るまではどんな女性とも関わる気はないですよ、アンジェ」
この言葉はアンジェリークの中に大きな歓喜をもたらしたが、自分の体力を考えてみても、まだ年若いルヴァを思うと複雑な気持ちになった。
「でも、それってあんまりじゃないの……まだ若いんだから」
ルヴァは”確かに若いほうだと言えるがそこまで活発でもない” と言いかけてやめた。
「他の人との関わりは、あなたを見送った後にまた改めて考えます。あなたが私の再婚を望んだらの話ですけれどね。今はこれでいいでしょう?」
ここでルヴァは墓場まで持っていく気で嘘をついた。
彼女には建前でああ言ったが、内心ではアンジェリークを生涯ただ一人の伴侶と決めている。しかし今それを口にすれば、優しい彼女は喜ぶ半面、自分が一人の人生を台無しにしたと己を責めかねないからだ。
(アンジェの心の重荷になるくらいなら、真っ赤な嘘のひとつやふたつなど容易いことです。何にも勝る宝を前にして、誰がよそ見など)
この密やかな想いもまた、これから先ずっと言葉にする機会はないだろう。
言葉にしない代わりに彼女の頭をそうっと抱え、柔らかな金の髪に指を絡めた。
暫くそうしている内に、撫でている側、撫でられている側の双方に眠気が襲ってきた。
「眠そうですね、アンジェ。もう休みますか?」
立ち上がり、置きっぱなしになっていた鞄を手に戻ってくるルヴァ。
「そうね、ルヴァも今日は疲れたでしょ。サンノヘイユって往復すると結構な距離よね」
「私はともかく、あなたにはきついでしょうねえ……あっ」
鞄から読みかけの本を取り出した拍子に、ばさりと封筒が落ちた。
「あら、なあにこれ」
アンジェリークが封筒を拾い上げようとして、封をされていなかったため中身が床に散らばった。
「あっ、ま、待って下さい! それは────」
真っ赤になり慌てた様子のルヴァへ不思議そうな目を向け、散らばったものをかき集めるアンジェリーク。そしてすぐに頬が紅色に染まった。
「…………やだあ!」
「あああのこれはその、ち、違うんですっ」
床に落ちたものは、オルヴァルが”面白い姿を見たから” と言って分けてくれた、アンジェリークの水着写真だった。
よりによってこのタイミングで見つかるなんて────と、ショックでがっくり肩を落とすルヴァ。
「ねえこれどうしたの? オルヴァルから?」
アンジェリークは普通に問いかけたつもりだったが、このときルヴァは何だか責められているような気分だった。
「はい……彼に見せて貰って、私の知らない頃のあなたが沢山写っていたので……譲って貰ったんです。そのー、とても可愛くて……」
何故か急にしょげ返ったルヴァを前にして束ねた写真を懐かしそうに一枚一枚眺めながら、アンジェリークがふいに笑った。
「ふうん、ルヴァでもこういうの興味あるのねー。はい、どうぞ」
ルヴァは手渡された写真を慌てて封筒に戻し、小机の引き出しにしまい込んでそのままじっと佇んでいる。
(こ……これは恥ずかしい……っ!)
行為についての会話が続いた後ゆえ、余計に恥ずかしすぎてアンジェリークの顔を見られないでいた。
それもそのはず、貰って来た写真はほぼ全てが水着ショットだ────”こういうの” に興味があると取られても仕方がない。興味がないと言えば嘘になる。せめて写真だけでもこの目に焼き付けておきたかったのだ、離れていた間の彼女の姿を。
「ルヴァ、どうしたの?」
ちらりと横目でアンジェリークを見やり、気まずそうに頭を掻いている。
「あの写真……私が持っていてもいいですか?」
「? ええ、もちろん構わないわ。かなり昔のだし」
何故それほど落ち込んだ声音なのかが理解できず、アンジェリークは小首を傾げた。
数日後、三人は開店前の店内に集まっていた。
ルヴァが早速届いた遺伝子検査キットを開けて内容物を確認した後、マニュアルと同意書に目を通して小さく頷いているところへオルヴァルが声をかけた。
「ルヴァさん、これをどうするんですか」
ルヴァはナイロン袋に入れられた試験管のような形のキットを手に取り、二人に手渡す。
「この採取キットの中に、試料……唾液を入れて蓋をするだけです。後は元通りにして、この返信用封筒で送って完了です」
カチリと音がしてルヴァがそちらへ目を向けると、アンジェリークがキットの蓋を開けていた。
「へえー、そんなので分かるの? 面白いわね」
「以前は親子などのごく近しい身内の鑑定が主流でしたが、ここ30年ほどで飛躍的にその精度も上がって、祖父母やそれよりずっと前のご先祖のルーツなんかも分かるんだそうですよ」
今では星から星へと渡り歩いた人々の遺伝子を辿り、星系ごとの進化の過程まで判明している。連綿と続く営みの系譜────それは時として残酷な結果をもたらす場合もある。他の民族からの侵略や虐殺から逃れ故郷を追われた者たちの歴史をも、つぶさに炙り出してしまうのだ。伸びゆく枝葉のごとく千々に分かれた同胞の中のどれくらいが生き延び、そして彼らはどこで途絶えたか────そんな運命の分かれ道が克明に記されている。
二人は言われた通りにサンプルを採取し、キットの蓋を閉めた。
ルヴァは回収したそれらを封筒に入れてしっかりと封をしている。
「では、これは私が出しておきますね。結果は約三週間前後だそうです」
そうしてそれから二週間が経過した朝、ルヴァは外から聞こえてきた鈴音に気づいて窓を開けた。