花、一輪
すっかりルヴァを親戚と思い込んだガーラントがアンジェリークの家を教え、にこにこと手を振っていた。
片手でアンジェリークを支え、もう片方で手荷物を持って歩いていく。
一目でもいいから逢いたいと押しかけてきて、もう少し一緒にいたくてこんな申し出をしたものの、それがとても迷惑だったのかもしれないと道すがら迷いを覚えた。
結局話し出す切っ掛けを掴めないまま、とうとうアンジェリークの家の前に着いてしまった。
そうっとアンジェリークを下ろして、彼女のほうへと向き直る。
「……突然お邪魔してすみませんでした。あなたがお元気そうで良かったです。では、私はこれで」
あのときと同じく笑顔で別れようと思っていた。
逢いに来ただけであの反応だ。今更想いを告げたところで今以上に混乱させてしまうだろう。だったら、今まで通りこのまま秘めて立ち去ったほうがいい────そして無理やり笑顔を作りさようならと言いかけたとき、アンジェリークの寂しそうな瞳に見つめられて出すべき言葉をすっかり失ってしまった。
「もう帰っちゃうんですか……?」
今なんて言いましたか、と聞き返したくなった。都合のいい夢でも見ているんじゃないかと。
「え、あの……ご迷惑なんじゃ……そのー、ご家族……とか」
夫や子供と暮らしていても何ら不思議はないくらい、なかなかしっかりした造りの家だった。そしてルヴァは彼女に家族がいても当然だと思った半面、いて欲しくないとも思った。
そんな少々やましい気持ちがそのまま言葉のニュアンスに出てしまったのか、アンジェリークの目が真ん丸に見開かれ、ふるふると首を振る。
「か、家族なんていません。せっかくですから、良かったらお茶でも飲んでいって下さい」
白壁によく映えるダークブラウンの木の扉を開けて、振り返ったアンジェリークが小さく微笑んだ。
細かいところは確かに変わったかもしれないが、基本的には変わらない微笑みがルヴァに安心をもたらして、彼の顔にも笑顔が戻る。
「あなたが嫌じゃないのなら……お邪魔します」
ルヴァは柔らかなアイボリーと淡いピンクが基調の室内を見渡して、ほうとため息をついた。
「……どことなく飛空都市の特別寮を思い出しますねえ。以前のあなたはもう少し濃い目のピンクがお好きでしたよね」
カップボードからティーポットやカップが取り出され、カチャカチャと小さな音を立てた。ほうろうのポットを火にかけながらアンジェリークはくすくすと笑う。
「あんまり成長してないって言いたいんでしょう? 実はその通りよ」
急に訪れたルヴァのためにお茶の準備をしている姿はとても楽しげだ。ルヴァはその後ろ姿を微笑ましく眺めながら、彼女が少し右足をかばって歩いているのを気にしていた。
「成長はしたでしょう。何といってもあなたは宇宙の至高の存在、女王陛下だったんですからねー。素晴らしい御世でした」
まだ少し温めの湯をティーポットに注ぎ入れて、残りを沸騰させるために再び戻し置く。
「そうだといいんですけどねー。もうちょっと待ってて下さいね、このコンロ最近調子悪くって火力が弱いのよ。そんなところまで主そっくりにならなくたっていいのに!」
笑い飛ばすアンジェリークとは対照的に、ルヴァの眉尻が下がった。
「膝が痛むと言っていましたけど、本当に調子が悪そうです。この家にはお手伝いさんとか、どなたかそういう方はいないんですか?」
ほうろうのポットからシュンシュンと沸騰を知らせる音がし始めた。アンジェリークは手際よくティーポットの湯をカップへ移し、茶葉を入れて熱湯を注ぐ。それからガラスのケーキドームを開け、既に4分の1ほど消費されているケーキを切り分けて、紅茶一式とともに運んできた。
「いません。わたし一人で暮らしてるの」
ケーキの乗った皿をルヴァの前に並べながらの呑気な発言に、ルヴァはぎょっとする。
「そんな……! 一人だなんて物騒ですよ、ここは聖地じゃないんですから」
「ああ、それは大丈夫。うちのお店の子がちょくちょく見に来てくれてるし……」
(うちのお店……?)
先程ガーラントも似たようなことを言っていた件を思い出し、僅かに目を見開くルヴァ。
丁寧に淹れられた紅茶は淡い色をしていた。二人の間にふうわりと漂う香りが寛ぎの時間を作り出す。
ほっこりとし始めたところでチャイムが鳴り、アンジェリークが入り口のほうへ顔を向けると同時にいきなりガチャリと音を立てて扉が開き、見知らぬ金髪の青年が姿を現した。ルヴァより確実に年上だがアンジェリークよりは幾分か若そうに見える。
その金髪の男がアンジェリークへ優しい笑みを浮かべて口を開いた。
「ただいま、アンジェリーク。買い付けしてきたよ」
「お帰りなさいオルヴァル。どうだった?」
アンジェリークの心なしか嬉しそうな表情に、ガーラントのときとは明らかに質の違う優しい声に、ルヴァは不安を覚えてしまう。
「もうバッチリさ! 結構吹っ掛けられたけど、値下げ交渉頑張ってきた……あ、なに? お客さんかあ。ごめん、じゃあオレ向こうにいるから。ごゆっくり」
オルヴァルと呼ばれた男はそこで初めてにこやかにルヴァへと頭を下げてから──彼女より少し深い翠の瞳だ──アンジェリークに手を振り去っていく。
ルヴァは何とも言えない空気の中で紅茶をひとくち含んだものの、既に味など分からなくなっていた。
「あの子がね、オルヴァルって言うんだけど、うちのお店のスタッフなの。髪と目の色が近いせいかしら、たまに弟さんですかって訊かれるのよ」
アンジェリークは口元を綻ばせて肩を竦め、それから紅茶を口にする。
「……随分親しいようでしたけれど、いいんですか? 私なんかとのんびりしてて」
うっかりつるりと口が滑り、不要なことを口走ってしまった。
そんなルヴァの言葉の棘──単純に焼きもち──に気づいたかどうかは分からなかったが、アンジェリークはにこにことそのまま話し続けた。
「ええ。今日は買い付けをお願いしてたから店はお休みよ。……ねえそれより、ケーキも食べてみて。今朝作ったの」
ちょっと上目遣いでルヴァの反応を伺うアンジェリークが余りにも変わらなくて、ルヴァはくすりと微笑んだ。
「ああ、はいー。いただきますね」