花、一輪
約束
そんな穏やかで楽しい日々が、それからもはらはらと舞い落ちる花びらのように幾重にも降り積もっていった。
アンジェリークの推定年齢が七十を超えた頃、ルヴァはテラスで温かな陽射しを浴びていた彼女に呼ばれた。
「ルヴァ、ちょっとお願い」
長年聞き慣れた声に、すぐ側で読書をしていたルヴァがついと顔を上げる。
「どうしましたか、アンジェ」
彼女のロッキングチェアーがぎしりと音を立てた。
持ち主と同じだけの年月を共にしてきたこの椅子は、長年使い込まれてきたお陰であちこちに小さくひびが入り、軋む音も随分と大きくなった。
しかし不思議とそれを煩く感じないどころか、むしろ心地よく聞こえているほどだ。
アンジェリークはゆっくりと小机の引き出しから小さな箱を取り出して、両手で大切そうに抱えながら戻ってきた。
「……この間、ガーラントさんの葬儀があったでしょう?」
「ええ」
庭先で倒れたっきり搬送先でも意識を取り戻すことなく旅立っていった彼を見送ったのは、先月のことだった。
アンジェリークはそれから時折キッチンへ立ち、ガーラントが摘んだ最後のレモンで作ったはちみつ漬けの瓶を寂しそうに見つめたまま、独りで佇んでいた。
「わたしもね、そろそろ……ちゃんと考えておかなきゃって」
小箱を優しく撫でながら二、三度瞬いたアンジェリークへ、ルヴァは咄嗟に答えた。
「! ……まだいいじゃありませんか、そんな話……!」
彼女の言わんとしていることにはすぐに気づいたが、それを聞いてしまったらすぐにでも終焉が近づいてきそうで、怖かった。
ここ最近”コロッと逝けたらいいわねぇ” などと言い始めたアンジェリークへ、ルヴァはどう対応していいのか戸惑うことが増えていた。
「でも大切なことなのよ、意識があるうちにあなたに渡しておくわ」
そう言われて小箱を手渡された。困惑してアンジェリークへと視線を向けると、にこりと頬を上げて穏やかな表情を見せている。
「わたしが死んだら、その箱を開けて頂戴。入れて欲しいものをメモに書いておいたから」
どうして今そんな話を────と喉まで出かかったが、それは音という形にはならなかった。
「…………棺に、入れろと?」
沈んだ声でそう答えたルヴァへ、アンジェリークは柔らかな微笑みを崩さずに首を横に振る。
「いいえ。それはルヴァに預けておくものよ」
「わ、私に?」
アンジェリークの両手が伸びてきて、ルヴァの頬を挟む。そして彼女のまなざしに愛しさが滲んだ。
「大事なものばかりだから、ルヴァが持っていて。いつかあなたが返しに来てくれる日まで……来てくれるんでしょう?」
それはアンジェリークからの約束だった。
また二人を分かつ日が来ても、その先の世界で再び巡り合おうという願いをこめて。
アンジェリークの優しい囁きに、ルヴァの胸の奥が微かに痛む。
「ええ、勿論です。ずっと昔に『次の世界でもあなたを追っていいのか』と訊いたのは、この私ですからね……」
ターバンのない髪の間を彼女の指先がゆっくりと通っていく。幾度も、幾度も。
そのまま頭を引き寄せられて、アンジェリークの胸に抱き込まれた。
ルヴァは温かな鼓動を感じながら両腕でアンジェリークを抱き締める。
「棺にはね、お勧めの本を何冊か入れて。ルヴァが来るまで読んで待ってるから、ながーいのがいいわ」
「では経済学と女王史でも」
ルヴァの茶化した言い方に軽く吹き出して、抱き締める腕に力がこもった。柔らかい癖に酷く暴力的な胸の圧力に負け、呼吸を求めたルヴァが横を向いて新鮮な空気を確保している。
軽やかにくつくつと笑う彼女の声が、本来であればしみったれた空気になりそうな話題を軽くしている。
「もう、苦手分野にするの止めて貰えます? しかも女王史ってわたしのことも載ってるじゃないの!」
「冗談ですよ。ちゃんとあなたの好きそうな物語を選びますから、そこは心配要りません」
ルヴァの手がアンジェリークの背から首筋を辿り、今や殆ど白くなった髪が指に絡む。見詰め合う二人の顔から笑みが消えた刹那、ルヴァの手のひらの力にぐっと押されて唇が重なった。
唇を離そうとするとすぐに彼の唇が追いかけてきて、強く塞がれてしまう。これ以上の言葉を聞きたくないとでも言うような荒々しい口づけの嵐に翻弄され、ようやく解放されたときにぽつりとルヴァが呟いた。
「……あとどれくらい、一緒にお月見できるんでしょうね……」
間近に見たルヴァの瞳が悲し気に揺れていたことに、アンジェリークは気付かないふりをした────彼の言葉が聞こえた瞬間、ぎゅっと胸を貫いた痛みに対しても同様に。
アンジェリークとの約束が遂に履行期間に入ったのは、それから五年の歳月が流れた頃だった。
彼女の食欲が落ち、眠っている時間が長くなったことをルヴァから聞いたオルヴァルが店の切り盛りを昔通り一手に引き受けたことで、ルヴァは彼女の側から片時も離れずにいる。
庭の手入れの主導権はルヴァに代わり、彼はアンジェリークの望む通りに甲斐甲斐しく動き回っていた。
以前は食べられる植物を植えたりもしていた庭には、色とりどりの花が咲き乱れていた。
そうして綺麗に手入れが行き届いた庭を彼女はいつもの椅子に腰かけて眺め入り、時には手仕事をして、ルヴァはその隣で本を読む────穏やかに満たされた生活がそこにあった。
再会した当初から幾度もしてきたことだが、ルヴァはアンジェリークがロッキングチェアーに座った際にしばしば床に座り、彼女の膝に頭をもたれかけた。
高さが丁度いいのと、そうっと頭を撫でられているのが何とも心地よくて癖になるのだ。以前オルヴァルにその話をしたところ”なんか犬みたいだ” と笑われたけれど。
これまで度々向き合って彼女を見上げていたルヴァだったが、今は彼女と同じ向きでしかもたれられない。
ひたひたと忍び寄る別れの影が、終わりの気配が、彼の胸の内を大きく抉ってしまうせいだ。その胸の痛みは日々強さを増しては彼の息を詰まらせ、ときに涙腺を刺激する────だから、ルヴァはアンジェリークの顔を見上げなくなった。
今も尚ジャスミンの咲き零れる美しい庭を前にして、アンジェリークはうつらうつらとした意識から目覚めた。
「……ねえ、ルヴァ」
アンジェリークの声と共に、椅子に取り付けられた鈴が音を奏でた。
万が一に備え、彼女が声を出せなくても知らせられるようにとルヴァがつけたものだ。
それをつけた当の本人は本から視線を上げて、すぐにアンジェリークの側へとやってきた。
「はい、ここにいますよ。どうしました?」
エメラルドのようだった瞳は現在、少しだけ濁って翡翠色になっていたが、それでも滲み出る優しさを湛えてルヴァを見やる。
「ちょっと喉が乾いたわ、お茶をお願いしてもいいかしら」
幾つになっても丁寧なお願いをしてくるところも可愛らしくて、くすりと笑みが零れた。
「ええ、すぐに淹れてきますね」
アンジェリークの膝の上にそっと薄手のブランケットを被せ、そっと立ち上がるルヴァ。
少し暑さを感じる日でも手足の末端だけ妙に冷たいことが多く、ブランケットやカーディガンは欠かせない。