花、一輪
「今日は冷たいミルクティーが飲みたいわ」
「はいはい、ではちょっと甘くしてきましょうね」
額に軽く口づけて踵を返したルヴァの服がくいと引っ張られた。
「どうしたんですか、アンジェ?」
怪訝な顔で振り返ったルヴァへにっこりと口元を綻ばせるアンジェリーク。
「……愛してるって今日言ってなかった気がしたの」
瞬きもせずまっすぐな視線がじいっとルヴァを捉えていた。網膜に焼き付けようとでもしているかのようなあまりにも強い視線を向けるので、話の続きがあるのかと思ったもののアンジェリークはそれきり黙りこくってしまったため、彼女の言葉への返事を告げる。
「そう言えば昨日の夜には聞きましたけど、今日はまだでしたね。私も愛していますよ」
キッチンでお茶の準備をしている最中に、ルヴァは妙な胸騒ぎを覚えた。
すっと血圧が下がっていくようなぞわぞわと落ち着かない感覚が体中を這いまわった。
じっとりと纏わりつく嫌な予感に作業の手を止めて、アンジェリークの元へと急いだ。
庭から吹き込む風がタッセルを外していたレースのカーテンをふうわりと揺らしている。
椅子に腰かけたまま先程と変わった様子はない。それなのに、ルヴァの中でどうしても違和感が消えないでいた。
「アンジェ……?」
呼びかけに応答がない。アンジェリークは耳も少し遠くなってきていたし、それに今、何故だか喉の奥が痛んで小さな声しか出ないのだ。きっと単に聞こえなかっただけだ。そうに決まっている────そう思って彼はもう一度呼びかけた。
「アンジェ、寝ちゃったんですよね……?」
真っ先に震えたのは声だった。やがてそれは全身へ伝わり、かたかたと小刻みに震える体を持て余す。
(……一体何なんですか、この消えない違和感は。このどうしようもなく嫌な予感は……!)
穏やかな表情はうたた寝をしているようにしか見えなかった。
まるで彼女の中から気高い魂だけが純白の翼を広げ、飛び去っていったように。
お腹の上で組まれた手をそっと取ってみても、首に触れてみても、胸に耳を当ててみても、彼女の鼓動はもうどこにもなかった。
温かな光に包まれながら、アンジェリーク・リモージュはひっそりとその生涯の幕を下ろした。
それからどれ程の時間が経過したのか────茫然と立ち竦んでいたところへがちゃりと扉の開く音がした。
オルヴァルが慌てた足取りで現れ、項垂れて放心しているルヴァの肩を掴む。
「ルヴァさん……アンジェリークは」
ゆっくりとオルヴァルへ視線を向けて小さく首を振る。落ち着いた表情の裏に、言い表せないほどの深い悲痛を湛えて。
「少し前に……」
その言葉にぐしゃりと髪を掻いて、悔しそうな表情を見せるオルヴァル。
「…………今朝夢にアンジェリークが出てきてさ、あなたを宜しくって言ったもんだから、もしかしてって思ったんだ……間に合わなかったな」
今朝方の話とはいえまだ午前中だ。開店準備をしつつも何か思うところがあったのだろう。
ルヴァはそれへ答えることなく、静かに眠っている彼女の傍らに力なくへたり込んで、白い頬を優しく撫でた。
「さっき……つい先程なんですよ、いつもの調子で私のことを愛していると……言って、た、のに」
こみ上げてくる悲しみに下唇を噛み締めた瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
まだ温もりの残る膝へ取りすがり嗚咽を漏らす彼の痛ましい有様を、オルヴァルはそっと見守った。