花、一輪
何となく見覚えのあるケーキを口へ運ぶと、甘さの中からふんわりとレモンの香りが広がってきた。
「……レモンケーキ……」
アンジェリークがまだ女王候補だった頃、幾度か作ってきてくれたケーキだった。懐かしさに胸がいっぱいになって、ルヴァはその優しい痛みが落ち着くまでの間そっと目を伏せていた。
「ガーラントさんのレモンじゃないと、なーんか同じ味にならないの。不思議でしょう? でもこのケーキ、結構好きだったでしょ?」
「…………っ!」
胸に熱いものがこみ上げてきて、その熱さに言葉がすっかりと溶かされてしまった。
親密だったにも拘らず二人の間で始まってさえいなかった恋。恐らくはゆうに二十年以上もの年月を重ねた彼女が、いまだに自分の好みを覚えていてくれたことがとても嬉しくて────燻り続けた炭が酸素を取り込んだときのように、ルヴァの想いが再び鮮やかに息を吹き返していく。このままで終わらせたくない、と。
俯き沈黙を続けるルヴァへ、アンジェリークは心配そうな表情を見せた。
「ルヴァ? あの、おいしくなかった? ごめんなさい、無理やり食べさせちゃっ────」
言い終わらない内にルヴァは思わずアンジェリークの側に寄り、背後から椅子の背もたれごと抱き締めていた。
「えっ、ええっ? あの、ルヴァ……離して」
突然の出来事に目を白黒させつつ、アンジェリークが僅かに身じろいだ。
「離しません。何もしないと誓いますから、ちょっとだけ、こうしていさせて下さい……」
掠れた声でどうにか告げて、頼りなくふわふわと舞う金の髪に唇を寄せた。
「…………」
「ケーキ、とても美味しかったです。美味しかったですけど……どうしてくれるんですか」
「な、何がですか」
「……何も言わずに帰るつもりでいたのに、あなたという人は」
アンジェリークの髪に埋もれたルヴァの唇が音もなく微かに動いた────好きです、と。
彼女ほどの女性がどうして家庭も持たずに独り身でいるのかという理由を考えたとき、ルヴァはどうしても自惚れてしまいそうになるのだ。
あのミニチュアブックにひっそりと書かれていた想いが事実表題の通りであるとしたら、まだ想って貰えているのではないかと。
ルヴァの右手がアンジェリークの胸を通り左肩を柔く抱き締めている。後ろからすっぽりと包み込む抱擁にアンジェリークはどうしていいのか分からず、ぎこちなく身を竦ませていた。
女王試験の最中、思うようにいかない育成に悩んで幾度かルヴァの胸に飛び込んで優しく励ましてもらっていたが、それは単に抱き留めて貰っていただけに過ぎない。だから彼からの抱擁というものはこれが実質初めての経験で、息が詰まるほどの切なさがちりちりと胸を焦がして言葉にならない。
緊張に体を強張らせて固まるアンジェリークの耳に、ルヴァの切なげな声が更に追い打ちをかけた。
「アンジェ、どうか私をここに置いてくれませんか。家事でも店番でも何でもしますから……あなたの側にいさせて欲しいんです」
「で、でも……うち、予備のベッドもないし」
「床で寝ます。不安でしたら廊下や物置でも構いません」
即答だった。余りにも迷いのない声に、どう答えたものかとアンジェリークの瞳が宙を彷徨う。
「そ、そんなこと言ったって……元とはいえ地の守護聖をそこらへんに転がしておけないでしょう?」
「今はただの住所不定無職ですよ。あっ、ここに置いて貰えたらお仕事は探しやすいですねー」
やはり即答だった。この強引さには覚えがある。かつて舞踏会で他の人と踊っていたアンジェリークに、次は自分と、と堂々名乗りを上げてきたのはルヴァその人だ。彼の発言は全て計算されつくしているときと天然のときとが混ざり合うために、今のこの発言もどちらなのか判別がつかない。
「……ほんと、強引なんだから」
やや拗ねた口調をしているが、根負けしたアンジェリークはようやく笑みを漏らした。
「背に腹は代えられないのでね。もう逃げたくないんですよ……色々なものから」
もう一度彼女の髪に唇を押し当てて囁く声には積年の愛おしさが滲む。
開け放った窓からは緑の香気を含んだ風が入り込み、柔らかく陽射しを受けたレースのカーテンをそよそよと揺らしていた。