花、一輪
ぱたりと扉が閉まりアンジェリークの足音がゆっくりと遠ざかっていくと、オルヴァルはそっと腕を放して突然奇妙なことを言い出した。
「Lから始まるんですね、あなたの名前」
突拍子もない謎めいた発言に当惑し、ルヴァは呆気に取られた。
「は? ……ええ、そうですけれど。それが何か」
「オレの名前、どう書くと思いますか」
こんなときに訳の分からない問答をしている暇はないのにと思ったが、彼の性格上無視することもできず律儀に答えを考える。
「ええっ? え……っと、そうですねえ。O・r・v・a・l……でしょうか」
手のひらに書いて言葉にしてみて、彼の言いたいことが分かってしまった。
気づいた途端に心拍数と体温が急激に上がってきて、すっかり慌てたルヴァは狼狽の色を隠せないでいた。
彼の名を呼ぶアンジェリークの発音は、確かにRではなくLだったと────
ターバンの下が蒸れるほど体に熱がこもる。言葉にならずオルヴァルに縋るような目を向けてしまい、彼がひとつ頷いて苦笑した。
「何度言っても訛った発音するんですよ。そんなにRで呼び辛いならってもう諦めてましたけど、今日でその謎が解けました」
オルヴァルは先程出てきた扉へつかつかと歩み寄り、寂しさを湛えた表情でもたれかかった。
「あなたはきっと本がお好きなんじゃないですか」
彼の顔にはっきりと浮かぶ諦観────まるで初めから答えを知っているとでも言いたげな。
こくりと頷いて見せると、オルヴァルはおもむろに扉を引き開けてルヴァを促した。
窓もなく外観からは蔦に覆われていて開かずの間にも思えた扉の向こうへと、興味を引かれるままにそっと足を踏み入れ────息を飲んだ。
部屋に入るなり視界に飛び込んできたのは、やや薄暗い室内の対の壁を埋め尽くす本棚。そして棚にぎっしり並べられた書物の多さにも圧倒された。
先程オルヴァルが下りてきた階段は扉のすぐ横にあり、雑貨のある側の二階へと繋がっているようだ。
窓は入って正面奥にひとつあったが、それよりもルヴァの目を惹いたのは正面の窓より高い位置にある美しい薔薇窓だ。吹き抜けの壁を彩る薔薇窓から取り込まれた光はステンドグラスの色を纏い、部屋の中央に落ちていた。
余りにも静謐かつ神聖な部屋の空気に、喜びと悲しみとが複雑に入り混じる衝動で唇が震えた。
茫然自失して立ち竦むルヴァの後ろから、オルヴァルの声がした。
「この部屋、オレが雇われる前からありましたよ。ここの管理だけは絶対にあの人がしてきたけど……そうやって立っているとあなたの書斎にしか見えないですね」
ルヴァは胸を締め付ける切なさに笑みを作ることさえできず、まなざしにやるせなさを宿してぽつりと問う。
「あなたが来てから……何年経ったんですか」
一体どんな思いでこの部屋を作り、長い間管理し続けてきたのだろう────手の中のミニチュアブックを見つめ、”Loin tu es toujours dans mon coeur”と書かれた表題の辺りを指先でそっと撫でた。
「二十五年、かな。あの人絶対に年齢言わないから何歳か知らないけど、少なくともオレが来てからは二十五年経った」
彼が来る二十五年前までには既に完成されていた部屋。その頃までは確かにこの本の表題の通りだったのだろう。だが今の彼女はと言えば、ルヴァと誰か別の女性との将来を口にする。
「そんなに長く一緒にいて、何もなかったとは思えませんが……恋人、なんですか。あの人と」
それだけの長い時間を共に過ごしたのなら、あの優しい人の中にそれなりの情も湧きそうなものだ、とルヴァは砂を噛むような気持ちになっていた。
きゅっと唇を引き結んだルヴァの心情を察したのか、オルヴァルは柔らかそうな金の髪をくしゃりと掻き、曖昧に笑って見せた。
「残念ながら、一度迫ったら引っ叩かれましたよ。好きな人がいるからオレとは無理って、ばっさり」