花、一輪
それからすぐに店を出てとぼとぼと歩く。
彼女と公園だの森の湖だの出かけていた頃ですら寮まで送っていく時間がもっと長ければと思っていたのに、ここでは更に驚きの徒歩十五秒。考えを纏めることすらできない。
ルヴァがかなりゆっくりと歩いても十七秒、既に玄関前に辿りついてしまった。
扉に手をかけた姿勢で開ける勇気が出るまで数回深呼吸を繰り返し、緊張に下唇を噛み締めながらゆっくりと家に入っていく。
先程の場所に彼女はいなかった。
どこへ行ったのかと探し回り、居間を通り抜けて庭に面したガラス張りのテラス前の廊下を横切ったとき、視界の隅にぽつんと置かれたロッキングチェアーが目に留まった。
微かにきしり、きしりと音を立てて揺らしているのは、彼が探していたアンジェリークだ。
「アンジェ、ここにいたんですか」
声をかけるとほんの少しだけ顔を傾けて、横目ではあったものの優しいまなざしが彼を迎えた。
「お帰りなさい」
それからアンジェリークは小鳥の囀りがよく聞こえる庭を見つめ、規則的に瞬きを繰り返した。
「何を熱心に見ているんです?」
話しかけながら、ルヴァはチェアーの横、アンジェリークの斜め前に腰を下ろした。
「別に、何も……」
にべもなく答えたアンジェリークだったが、肘掛けに置かれたブランケットの色がルヴァの執務服のメインカラーとほぼ同じなことにも気が付いて、彼はくすりと笑みを漏らした。
アンジェリークと同じ方向に視線を流しながら彼女の膝にそうっと頭をもたれかけて、静かに目を閉じた。
「……ねえ、アンジェ」
穏やかな調子で尋ねた。
「さっきの話の続きなんですけどね、あの小さな本の表題……『遠くにいても、あなたはいつも私の心の中にいる』っていう意味ですが……」
そこで喉が引きつって言葉がつかえてしまい、小さく咳き込んでから言葉を繋いだ。
「はいかいいえで答えて下さいね。あの……あれは、あなたの本心だったんですか」
言葉を考えさせてはうまくはぐらかされるとルヴァは判断し、敢えて二択を迫った。
沈黙が続く間、こめかみに彼女の膝の温もりを感じながら答えを待つ。
「…………はい」
かなり小さく囁かれた答えは、ルヴァの心を雀躍させた。そして彼は更なる質問をぶつける。
「では……今もその気持ちは続いていますか……?」
ここからが本題だと思うと、再び喉がつっかえそうになった。
どうしても知りたかった。身近にいる異性にもなびかず、家庭はおろか恋人も作らず、未だにこんなにもあちらこちらに自分の面影を残しているのは、想われているからだと────単なる自惚れや勘違いなどではなく確信が欲しかった。
「それは……あの」
どぎまぎと困惑した声が耳に届き、ルヴァはそれを突っぱねる。
「はいかいいえですよ、アンジェ。正直に教えて下さい、私はどちらの答えでも大丈夫ですから」
彼女の震えがこめかみに伝わってくる。ルヴァはそれに気づかないふりをして、目を伏せたままだ。
「えっと……答えは…………はい、です」
緊張で凍り付いていたルヴァの体を安堵の熱が温めていく。緩く息を吐いて、くるりと体の向きを変えた。
ルヴァの穏やかなまなざしが、一瞬でも逸らせないと言う風にじいっとアンジェリークを見つめた。その口元にいつもの微笑みを浮かべて。
「良かった……私もあなたと一緒にお月見がしたかったんです」
アンジェリークは零れそうなくらいにまあるく目を見開いて、ルヴァを見下ろしている。
更に嬉しそうににっこりと頬を上げた彼が自らの手をターバンの上に乗せた。少し潤んだアンジェリークの翠の瞳がきらきらと宝石のようで、ルヴァは瞬きを忘れて眺め入る。
互いに視線を絡め合わせながら彼のターバンが解かれていき、二人の足元にとろりとした柔らかい質感の布地が滑り落ちていく。
故郷の風習についてはずっと昔に話した記憶がある。恐らく覚えていてくれるだろうと思ったルヴァは細かい説明を省き、頭を指差した。
「……あなたの前だけですからね」
照れ臭そうに笑ってそう告げた後、髪を手櫛で整えて再び庭のほうへ向き直り、アンジェリークの膝に頭を乗せた。
そうして静かに庭を眺めている内に、アンジェリークの細い指先が恐る恐るルヴァの髪に触れ、ゆっくりと梳き始めた。
髪の間を滑らかに往復する優しい感触に、好きでいてもいいのだと彼女から許しを貰えたように思えて、閉じた瞼の裏に熱く滲んだ涙を思い切り堪えた。
(アンジェが何を恐れているのかは分かりませんが……今はまだ、このままで……)
テラスの中を燦々と午後の陽射しが降り注ぐ。
様々なハーブが植えられた庭の一角に、ジャスミンの花がひときわ美しく咲き誇っていた。
言葉なく寄り添い合う二人は互いの温もりを感じながら、ゆったりとした時間の中で心地よい微睡みへと誘われていった。