花幻の蕾
荒れ果てた邸内を進んで行くと、一番奥の部屋から灯りが洩れているのが見えた。
目当ての人物はおそらく其処だろう。
所々腐り落ちた床を踏まぬよう注意しながら、灯りを目指す。
突然、四方から鴉ほどの大きさの、鳥とも獣ともつかぬ姿の生き物の集団が、奇声を上げて襲いかかってきた。
「祓え!」
気合とともにカイトの腕が空を切ると、ばらばらと紙の幣が落ちる。式を憑ける為のもので、奇獣はこれから会いに行く人物の式神であろう。
「不意打ちのつもりだったんだろうけど、この程度じゃあねえ。…ま、気配に気付いた時点で逃げ出さないだけ偉いか」
カイトは服に付いた紙を払うと、何事もなかったかのように再び歩き始めた。
辿り着いた部屋の中には、術の為に設えた祭壇があり、その前に黒い衣の男が座っていた。
案外若いなとカイトは思った。 自分より五つ六つ上というところか。痩せた陰気な感じの男だ。
「どうも。今晩は」
「……」
男は答えない。額には汗が浮かび、視線が泳いでいる。先程の襲撃で相手が無事だった事に、かなり動揺しているようだった。
カイトはずかずかと広い板張りの部屋の中央まで進み、男を見下ろしながら言った。
「さて。俺がここに来た理由は分かるよね?」
男は既にカイトがただの侵入者でないと理解していた。
「あんたの呪詛は失敗。放った式は、ほら」
翳された手の背後の闇には、隠形を解かれた異形のもの達が蠢いている。
「俺の合図でこいつらはあんたの元に戻る」
「お前が私の式を打ち返したのか?」
黙っていた男が口を開いた。
「式をそのまま戻さずに私の元まで来るとは、一体何故…」
若者は相手の話を中断するように、頭を振った。
「あー、残念だけど、俺がここに来たのは交渉の為じゃないんだよねー。あんたが殺そうとした俺の依頼人がえらく御立腹でさ。呪詛を依頼した奴は目上の人間で面と向かっては追及できないし。せめて術師は確実に殺して来いって言うんだ。祈り負けしても、術師が強かったら死ぬとは限らないし」
まあでも、と酷薄な笑みを浮かべて続ける。
「あんた程度には別に必要なかったかな?」
カイトが大仰に両腕を開くと、合わせて後ろのもの達がざわめいた。
男の顔が恐怖に引きつる。
「ま、待ってくれ!見逃してくれ!依頼主には殺したと報告すれば済む話だ。勿論出来る限りの礼はする!」
「はあ?今さら命乞い?お互い外法を使って人を殺すなんて商売してるんだ。自分が殺されるかもしれない覚悟は、とうの昔に出来てるだろ」
「頼む、話をー…、…!」
途中で言葉が途切れ、男の目が見開かれた。
「来るな!!」
叫んだ言葉はカイトに向けられたものではない。男の目はカイトの肩越しを見ている。
「……?」
男の視線の先を辿ると、部屋の入口に俯いて立つ女が居た。
門の所で出会った女だ。いつの間に立っていたのか。
「来るんじゃない!お前は早くここから去れ!―――がくぽ!!」
男の声色は必死だ。
だが、女は一言も発せず、逃げる素振りも見せない。
面倒な事だと思ったが、カイトは女に向かって話しかけてやった。
「君の主もこう言ってるし、早く逃げたら?俺が依頼されたのは術師を殺す事だけだし。一般人殺すのも気が引けるしね」
カイトの言葉など全く聞こえていないかのように、女は微動だにせず俯いたまま、ただ立っている。
さすがにいぶかしく思い、カイトが表情をのぞこうと足を踏み出したその時、女が顔を上げた。
は、と息を飲むほど美しい顔。
緋色に燃えている目と視線がぶつかった。
この女は人ではないと悟った瞬間。
女はカイトに襲いかかった。
目は紅玉。血など通っていないかの様な白磁の肌に、髪は夜目にも鮮やかな藤色で、間から二本の角が覗く。
女は鬼の姿を現していた。
人間では有り得ない距離を跳躍し、カイトの喉元に鋭い爪を突き立てようとする。咄嗟に身体を捩り直撃を避けたが、腕に鋭い痛みが走った。
「く……ッ!オン・バザラ・ヤキシャ・ウン!」
真言を唱えると、短い悲鳴を上げ鬼は雷光に弾き飛ばされた。
「―――行け!殺せ!!」
初撃を寸ででかわしたカイトは、逃げようとする男に向けて、連れていた式を放った。
もしも術師の男が鬼がカイトに飛びかかったと同時に全力で走り去っていたなら、逃げおおせる事が出来たろう。
だが、何故か男はわずかに躊躇ってから走り出していた。
鬼は体勢を立て直し主人の元へ向かうが、間に合わない。
「ああ゛あ゛あ゛ああ゛ああ」
男の断末魔が響き、血の匂いが辺りを包んだ。
がくぽ、と呼ばれた鬼が男に群がるもの達を引き剥がした時には、男は既に事切れていた。