69 エデンの庭
同情の顛末
「お願い!髪を切った事、おばあさまたちには…言わないで?」
ミーチャと連れだってミハイロフ邸へ向かうアレクセイを玄関先で、大きなお腹を抱えたユリウスが引き留める。
彼女の小さな金の頭は、ぴっちりとプラトークで覆われていた。
「なんだよ…。どうせいずれはバレるん…」
「それでも!…お願い」
出かける夫の袖を引っ張って懇願するユリウスの碧の瞳に負けたアレクセイは
「分かったよ。お前がそう言うんなら…。おばあさまたちには言わないでおくよ。…さ、行くか。ミーチャ」
アレクセイは妻の頬を引き寄せ「チュ!」と音を立てて口づけると、息子と共にアパートを後にした。
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ユリウスを匿っていたアレクセイの実家であるミハイロフ邸がアジビラで煽動された民衆に襲われ、その後数日行方不明になっていたユリウスが臨月のお腹を抱えて命からがら戻って来た。
行方不明であったその間の事、そして脱出の顛末を語りたがらない彼女に事の経緯を無理に聞きだすことも―、尤も国の一大事で、気にはなっていたけれどそれを訊きただす余裕もなかったというのも真相であるが、特段しなかったアレクセイであるが、戻って来たユリウスは腰まであった長い髪を短く切っていた。
襲われたときに暴力を受けた訳ではなく自発的に切ったという事、脱出の時に邪魔になってやむなく切ったという事だけ彼女自身の口から聞き、兎にも角にも彼女とお腹の子供が無事だったことにアレクセイも、ミーチャもホッと胸を撫で下ろし、彼女の髪の事はそれ以上気に留めることもなかった。
そして彼女もそうだろうと思っていたのだが―。
ユリウス生還の報を聞きつけ、以前から親交のあった人間―、アパートの大家や支部の人間、その奥様連がミハイロフ家のアパートにひっきりなしに彼女の見舞いに訪れた。
そして無事帰って来た彼女を見て、安心した後に皆一様に見せた痛ましげな表情―。
その度にユリウスは「髪を切ったのは暴力を受けてではなく、脱出の際に自分で切った」と、説明していたのだったが、自分ではさほど気にしていなかったものの、会う人会う人皆に痛まし気な顔を向けられると、「アレクセイとミーチャは「可愛い」と言ってくれたけど、自分の髪、やっぱり変なのかしら?」とユリウス自身もだんだん気に病むようになってきた。
そう言う訳で、彼女は数日前から手持ちのプラトークで頭をすっぽりと覆って、市場へ行くのも厭い、もはや「プチ引きこもり」のようになってしまっていた。
(尤も引きこもり状態の理由はそれだけではなく、臨月の大きなお腹を抱えて外出するのが億劫だったというのもあるが)
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「ねえ、父さん。母さん、髪のこと、気にしてるのかな?」
乗合馬車の停車場へ連れだって向かいながらミーチャが父親にユリウスの髪の事を切り出した。
「ん?…そうみたいだなぁ。あいつらしくないが…」
ミーチャの問いかけにアレクセイが曖昧な返事を返す。
「どうしたんだろう?帰って来た日はそんなに気に留めていた様子じゃなかったのに…。やっぱりこうして落ち着いてきたら、…何だか気になってきちゃったのかな?」
― ムッターの長い金髪、すっごい綺麗だったもんね。
「ミーチャは、ムッターの髪、やっぱ長い方がいいと思うか?」
「うーん。僕は今のショートヘアのムッターも好きだよ。だから僕朝ムッターと顔を合わせると最初に両手でムッターの金の頭を包んでクシャクシャ~っとやって、頭の天辺にチュってキスしてたんだ。…ムッターも喜んでたのになぁ。ここ数日家の中でもプラトークかぶってるから、クシャクシャ~って出来なくて残念だよ…」
ミーチャの残念そうな口ぶりに
「おま…!母親…ユリアの頭にそんな事してたのか?!…バカたれ!!それは俺の専売特許だ~~~~!!」
とアレクセイの怒声が響き渡る。
「え~?ファーター横暴~。ムッターの輝く金の髪は僕たち二人のものだよ!」
― あ!もう馬車来てる!!すいませーん。後二人乗りまーす!ホラ、ファーター急ごう?!
ミーチャは傍らで動揺止まない父親を促すと、彼の腕を掴んで停車場の乗合馬車に向かって走り出した。
作品名:69 エデンの庭 作家名:orangelatte