71 utopia
1915年晩夏
モスクワ
上がったばかりの原稿を手にアルラウネは、裏通りのアジトへ向かっていた。
市街の歓楽街でも売春宿などのいかがわしい商売の店が軒を連ねるその通りは、目つきの悪い柄の悪そうな男や、昼間から酔い潰れた者、そしてたちの悪い売春宿が立ち並ぶ為に、客を引くケバケバしい身なりの女たちで溢れており、昼日中でありながら、なんとも言えない荒んだ雰囲気を漂わせていた。
ー 何度来ても…ゾッとしない所だわね。
アルラウネはかっぱらいの子供たちにバッグと原稿を引ったくられないようしっかりと両手に抱え直し、目的地のアジトへ急いだ。
その時ー
アルラウネの目の端に、情報屋兼女衒のニコライが、ここら辺りには似つかわしくない上品な女を連れているのが映った。
粗末なドレスに身を包んだその女の頰はこけ、顔色も青白く明るい茶色の髪を背中で一つに纏めただけの簡素な髪型から覗く首筋は骨が薄っすらと浮き出ていたけれど、それでも優雅な立ち姿と全体から醸す雰囲気は、その女が、生まれた時からここにいた者ではないという事を示していた。
ー 生活が立ち行かなくて…身を持ち崩すのね…。気の毒に。
その女にアルラウネが同情を寄せ、表情を曇らせたその時ー、一瞬その女の横顔が窓ガラスに映り込んだ。
「アナスタシア⁈」
アルラウネが思わずその女性を、シベリアにいるはずのその女性の名を叫んだ。
〜〜〜〜〜〜
びっくりした顔で立ちすくむアナスタシアの代わりに、彼女の横にいたニコライが口を開いた。
「何だ!アルラウネの知り合いか?あんたモスクワっ子じゃないって聞いたけど…世間は狭いな」
ニコライはそう言うと、ニヤニヤ笑いを浮かべた。
「ちょっとニコライ!…あんたこの人をどうするつもりよ⁈」
アルラウネが眦を釣り上げてニコライに食ってかかる。
「人聞き悪い事言うなよ〜。何もさらって来たわけじゃないぜ?…このお嬢さんの方から、俺のところへやって来たんだ。俺は寧ろ人助け?って奴だ。このお嬢さん見てみろよ?可哀想に。こんなに窶れて痩せちゃって〜。だけど見てろよ?俺がいい娼館に斡旋してやるからな。そうしたらこれだけの別嬪さんだ!す〜ぐに売れっ子になって、綺麗な服着ていい旦那に囲って貰えて、親の借金もあっと言う間に返せるからな!」
ニコライはアルラウネの剣幕に両手を挙げて弁解しながらも、最後の方は誇らし気に胸を張って、傍らのアナスタシアに向かって太鼓判を押し、背中をバンバン叩きながら、これからの生活を請け負った。
一方零落した自分の姿を見られたばかりか、これから正に苦界に沈もうとしている事を暴露されたアナスタシアは、身の置き所がなく、泣きそうな顔で唇を噛んで俯いていた。
「何言ってるのよ!アナスタシア、あなたもうこの男からお金を受け取ったの?」
俯いたアナスタシアの頭の上に、歯切れの良い声が降って来る。
いきなり自分に話を振られ、アナスタシアは顔を上げた。
「どうなの?お金は受け取った?…何か書類を交わした?」
アルラウネが尚もアナスタシアに畳み掛ける。
アナスタシアが弾かれたように首を横に振った。
「そう…。じゃあまだ契約は未成立ね。ニコライ、悪いけど、他当たりなさい。この人は私の昔馴染みでね。…そういう人じゃないのよ。商売の邪魔して悪いわね。…これでちょっといい酒でも飲んで頂戴」
アルラウネはアナスタシアの手を強引に自分の方へ引き寄せると、無理やりニコライの手に紙幣を握らせた。
「お、おい!アルラウネ⁈ってめえ!」
突然飯のタネを横取りされたニコライが目を白黒させてアナスタシアの手を引き早足で去って行くアルラウネの背中を見送る。
「チクショー!アルラウネ、後でこの借りは返して貰うぞー!」
アルラウネはニコライの悔しまぎれのあと戯言を背中で聞きながら、片手を彼に向かってひらひらと振った。
作品名:71 utopia 作家名:orangelatte