71 utopia
「お帰りなさいませ。大奥様。ーあっ!」
玄関でヴァシリーサ一行を迎えたオークネフが、その中に、懐かしい顔を認め、小さく声を上げた。
「お久しぶりです。オークネフ。…覚えていてくれたのね」
「ドミートリイ様の、ご当主様の奥方様におなりになるはずだった方を…お忘れになる筈がございません。…昔と変わらぬお美しさで…何よりこの激動の時代に…またこうして無事な姿でお会いでき…大変嬉しゅうございます」
そこまで言うとオークネフは、不意に言葉をつまらせた。
「オークネフ、こんなところで泣くではないよ。…全く、歳をとると感傷的になっていけないね。…サロンへお茶を用意しておくれ」
涙にむせぶオークネフを、呆れたようにたしなめたヴァシリーサだが、その声は自分と共に苦労を乗り越えながら歳を重ねたその老執事に対して、限りなく優しいものだった。
「はい…はい。そうでございますね。只今お茶の用意をさせましょう。…サロンはこちらでございます。」
〜〜〜〜〜〜
大階段を上がり通されたサロンは、貴族の邸宅にしてはこじんまりとしていたが、高い天井に、南向きに作られた大きな窓から陽光の射し込む気持ちの良い空間だった。
アルラウネも見覚えのある、ミハイロフ家に古くから奉公していた年かさのメイドがトロリーを押してサロンへ入室する。
先程ヴァシリーサが言っていたマルベリー(桑)のタルトをサーブし、ティーカップにお茶を注ぐ。
カップから爽やかな香りの湯気が立ち上る。
「いい香り…。これは…紅茶ではありませんね?何のお茶ですの?」
カップを持ち上げ香りを吸い込んだアルラウネが尋ねる。
「これは、庭のフレッシュハーブティーでございます」
お茶を注いだメイドが答える。
「最近ものが手に入りにくくなっているからね。夏の間は紅茶を節約して、その代わりに庭で栽培しているフレッシュハーブをお茶にして頂いているんだよ。このタルトのマルベリーも庭で採れたものですよ。この屋敷の庭には実に沢山の果実の木が植わっていてね。きっと、生まれてくる子供に食べさせようと植えつけたものだったのだろうね。気取らない暖かな…愛情の感じられる庭と屋敷ですよ」
ー 逆縁の息子と、家名に泥を塗った…この親不孝、婆不孝者たちに…晩年になって、こんなギフトを貰うなんて…。人生、とことん生きてみないと分からないものですね。
爽やかな芳香を立てるティーカップを片手にヴァシリーサがしみじみと己の数奇な人生を語る。
「おまけに…この庭の菜園で採れた旬の新鮮な食材や、ダーチャの使用者たちから差し入れられる川魚や保存食、果実酒を三度の食事で頂いているうちに、大奥様の血圧も安定してきて…、以前よりもすっかりご健康になられて…本当に私も、ミハイル様と、アレクセイ様には感謝致しております」
オークネフがまたしても、声をつまらせる。
「これ、オークネフ!余計な事を言うでないよ。…全く。そういう訳で、私は晩節に入っても益々壮健ですからね。これからこのひ孫たちが大きく成長するのもしっかり見届けるつもりですよ」
「ネッタお嬢ちゃまには、プリンをご用意致しましたよ」
メイドがユリウスの膝に抱かれたネッタの前に、小さな皿に盛られたプリンを置いた。
「あ、ネッタ。プリンだって〜。よかったねえ。」
ユリウスが膝の娘の、歯の生えそろっていない小さな口にスプーンですくったプリンを運ぶ。
柔らかなプリンを口にしたネッタが、満足そうな笑顔を浮かべる。
その笑顔を目にした大人たち全ての顔に、笑顔が浮かんだ。
作品名:71 utopia 作家名:orangelatte