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72 第二部 プロローグ 1919年冬 パリ

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「あの14年前の俺がレーゲンスブルグをひっそりと立ち去った日、俺を追いかけてこいつが―、馬で俺の乗った列車を追いかけて来たんだ。そんなあいつを見た俺は―、どうしてもこいつを見過ごしてドイツを去ることが出来なくなった。…それで、こいつにもう一度会うためにフライジング駅手前の鉄橋から…川へ飛び降りた。川から上がると…馬で列車を追いかけたものの、追い付くことが出来ずに、馬を引いて枯葉を踏みしめながらトボトボと歩いていたこいつの金の頭が西日に照らされているのがすぐに見えた。
泣きながら駆け寄って来たこいつを受けとめて、抱きしめて―、キスして、初めてこいつの気持ちを、俺の心のままに受け入れた。唇を合わせたときに…、もう俺は自分の心を偽って、こいつと離れてその後の人生を生きるのは無理だと…心のどこかで明確に悟った。
…それで、こいつを連れて、ミュンヘンのアジトへ行って…、初めてこいつのピアノに合わせてヴァイオリンを弾いて…、「お前が女だという事を前から知っていた」とこいつに告げた。こいつは俺が知っていたことにとてもびっくりしていたようだったけど、「自分をロシアに連れて行ってほしい」と、俺と人生を共にしてくれると、言ってくれたんだ。こいつをロシアに連れて行くことが、果たして幸せに繋がるかは俺にも全く保証はしかねた。だけど…、俺は、いや、俺たちは、一度お互いの全てをさらして、唇を合わせ、身体を重ねた俺たちは、もうお互い離れることなど、到底できなかったんだ」
アレクセイがそっとユリウスの白い手を握りしめた。手を握りしめられたユリウスも夫の大きな手をそっと握り返した。

こうして、幼いながらも手をしっかり握りあって…この二人は大人になって、親になって、人として成長してきたんだな―、と二人を見てダーヴィトは思った。

「それでね、アレクセイの保護者であったアルラウネも、ぼくらの願いについに折れてくれて…、ぼくは、女の子の…本来の自分に戻って、アレクセイと一緒にロシアへついて行くことになったの。嬉しかった…。今まで自分の人生を何一つ選択することが出来なかった自分が…、人生の全てを諦めていた自分が…、心から愛する人と偽りのない人生を歩むことが出来ることが…。彼に受け入れてもらえたことが…、本当に嬉しかった。初めて肌を重ねたときに、もうドイツへは戻れないけどいいか とアレクセイに聞かれたけれど、ぼくにとっては…、アレクセイのいない人生を生きる方が、故郷を永久に離れる事よりも…ずっと耐え難く思えた。それで、ぼくは生まれて15年名乗っていたユリウス・フォン・アーレンスマイヤという名前を棄てて…、ユリア・ミハイロヴァとして彼の妻になってそれからの15年を生きて来たんだ。その間に長男の妊娠、出産、アレクセイのモスクワ蜂起の参戦、恩人のアルラウネとの決別、モスクワ蜂起に敗れたアレクセイの六年のシベリア流刑、その間の一人で子供を育てる苦労、アレクセイの脱獄と再会、それから二人目の妊娠と革命…いろんなことが沢山あったよ。でも、ぼくは自分で選んだ人生を後悔したことは一度もなかったし、その間ずっと幸せだった。…たまに、棄てて来た故郷や…友や、家族や、それから母さんの事を思うと心が痛んだけれど。でもこれがぼくの選んだ人生だから、この痛みも甘んじて受けとめようと思ってひたすら前を向いて進み続けた。これがね、ぼくのあれからの15年」
アレクセイが流刑になっていた間の6年もの時間を、誰も頼る者のいない異国の地で生まれたばかりの子供を育てながら夫を待ち続けたというのは―、本人はサラッと語ったものの並大抵の苦労ではなかっただろう。改めてこの目の前の女性の芯の強さと、愛の大きさを思い知る。