第二部 3(76)刑事
「先ほどの男は、一体誰ですか?」
― 物腰は穏やかだけど、油断のならない目をしていた。
サロンに通されたダーヴィトは、ピアノの鍵盤から両手を下すと、マリア・バルバラに先ほどの来訪者の事を訊ねた。
「帝国警察の刑事よ。― もう一年?二年前になるかしらね。以前に話したヤーンという、ユリウスの主治医という名目で我が家に住み込んで、―今にして思うとお継母様とユリウスをたかっていた男が降誕祭の晩に突如失踪したの。夜逃げ…ってやつね。本当に給与も貰わず、金目のものも一切取って行かずに…忽然と姿を消したの」
― はい、どうぞ。
マリア・バルバラがダーヴィトに紅茶を入れながら、突如アーレンスマイヤ家から姿を消したヤーンという男の事を語って聞かせる。
「それから暫く経って、あの男―、帝国警察の刑事というさっきの男がうちに事情聴取に現れたの。当家で雇っていたゲルハルト・ヤーンについて行方を追っているので捜査に協力願いたい…とね。あの男―、ゲルハルト・ヤーンはね、お継母様とユリウス母子を強請っていただけのただのペテン師の小悪党などではなく…、実はイギリスと通じてドイツの機密を流していたスパイだったそうよ」
「へえ…。スパイ…ですか」
「ええ。あの帝国警察の男は…もう7~8年も前からヤーン先生…ゲルハルト・ヤーンの足跡を追っていたのですって。― ユリウスやお継母様が我が家にいた頃は、彼女たちにずいぶんと執拗に訊いて回っていたけど、結局何も情報を得る事が出来なかったみたいね。相変わらずヤーンの行方を捜してレーゲンスブルグ中…いえ、ドイツ中を犬のように嗅ぎまわっているらしいわ」
― お代わりは?
マリア・バルバラがティーポットを手に取ると、ヤーンという男の、帝国警察の刑事の話をしていた時の険しい表情を緩めた。黒い髪に黒い瞳の彼女と金髪碧眼のユリウス。外見上の特徴という点ではあまり共通点のないこの姉妹だが、勝気そうな表情や、親しい心を許した人間のみに見せる意外なほど豊かな表情は、ユリウスとそっくりで、たしかにこの二人は血を分けた姉妹である と思わせるものがあった。
「頂きます」
マリア・バルバラがダーヴィトのカップに紅茶を注いだ。
「そのヤーンという男がアーレンスマイヤ家から突如蓄電したのであれば…、ユリウスや…この家の人間だってその後の消息を知る筈がないじゃないですか。…なんだってその帝国警察の男は、このアーレンスマイヤ家に執心するのでしょうかね?」
「さあ…。なんでかしらね。他に、手がかりが得られなかったからじゃないのかしら?もううちの人間にいくら訊いても、知っている事、あの日に起こった事は詳細に全部語りつくしたというのに!同じ事を何度も何度も…。本当にしつこいんだから!!」
「同じ事を何度も繰り返し訊ねて…相手の返事から浮かび上がってくる矛盾点を洗い出すのは…、刑事が尋問で行う基本的なテクニックのようですよ?」
「あら…そうなの?詳しいのね、名探偵さん。だけど、おあいにく様。うちの人間は―、全てシロよ。何度聞いても同じ答えしかお返しできないわ。お互いに時間の無駄だわ」
― それより、そんな知識、どこで手に入れたの?
マリア・バルバラは完全にあのいまいましい先客の来訪で損ねた機嫌を直したようだ。歌うような口調で、ダーヴィトに問いかけた。
「寄宿舎の友人に探偵小説マニアがいましてね。退屈しのぎにたまに彼の本棚から拝借して読んでいたのです。― 名探偵にほかに質問したいことは?」
「まず一つ目は―、今日の来訪の目的は、何かしら?」
そう尋ねたマリア・バルバラの声が、周りをはばかるかのようにワントーン声が低くなる。
ダーヴィトの突然の来訪に、当然何らかの意味するところがあるものだと察し済のようである。
「あの前回の来訪の日の夕方、ゼバスの校舎の裏でお宅の下男―、ヤーコプを見ました。彼は、フレンスドルフ校長と会っていました。耳をそばだてて二人の会話を聞いていたら、断片的に、僕の事を話しているのが聞こえました。…恐らく最近僕がアーレンスマイヤ家を、あなたの元を訪ねている事を知らせていたのだと思います」
― 先ほど執事さんに、あの下男はアネロッテさんのお気に入りの使用人だという事を聞いたので、僕も又あの日僕たちの会話を盗み聞きしていたのは、てっきり…失礼ながらアネロッテさんの差し金だと思っていたのですが、ヤーコプがフレンスドルフ校長ともつながっているともなると…。さっぱり分からない。ヤーコプを通してアネロッテさんとフレンスドルフ校長はつながっているのか、それとも…、そうではないのか。
ダーヴィトの話を、マリア・バルバラは姿勢を正して彼の目を真っすぐに見つめて聞いていた。自分の話す内容を一言も聞き漏らすまいと耳を傾け頭を働かせるその理知的な表情が、その女性の整った、少し硬質な顔立ちによく合っていた。かつて一緒に練習していた時のユリウスも、ダーヴィトの指示によくこのような面持ちで耳を傾けていたものだった。
「二つ目は?」
ダーヴィトに二つ目の質問を促されたマリア・バルバラの表情がふっと和らぐ。そしてどこかユリウスに似た、いたずらっぽい表情を浮かべて問いかけた。
「さっきあなたが弾いた曲は、何という曲なのかしら?とても綺麗なメロディだったわ」
先程ダーヴィトがマリア・バルバラに弾いて聴かせた曲は、モーリス・ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』だった。
それはダーヴィトがまだ右手の指の筋を損傷する前、ピアノ科に在籍していた頃によく弾いていた曲だった。
「あれは、「亡き王女のためのパヴァーヌ」というラヴェルの曲です。昔はもっとスムーズに弾くことが出来たのですが、僕はこの通り右手の4と5の指を怪我でダメにしてしまって…。長らくピアノは弾いていなかったのですが、今日はどうしても…あなたにピアノを聴いてもらいたい貰いたい気分になって、4と5の指の運指を他の指に振り替えて、うんとテンポを落して弾いてみました。拙い演奏でお耳汚しをしました」
そう言ってダーヴィトは右手をマリア・バルバラの前に掲げると、親指から順番にゆっくりと曲げ伸ばしして見せた。中指まではスムーズに動いたその長く繊細な指は、薬指の番になるとぎこちなく、伸びたままになっていた。小指も同様だった。
「あら、私はこのどこか拙くて儚い感じが…この曲にとてもよく合っていると思っていたのよ。…きっとどこかで同じ曲を聴いたとしても、私は今日のあなたの演奏が、一番この曲らしいと思うわ」
― また、聴かせてね。あなたのピアノ、素敵だったわ。
この人は嘘は言わない。だからきっと自分の今日の演奏も、それなりに彼女の心に響いたものだったのだろう。
「喜んで」
ダーヴィトはマリア・バルバラのリクエストに笑顔で応じた。
作品名:第二部 3(76)刑事 作家名:orangelatte