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【青エク】ブラック・シャック

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 だが流石にもう一言も喋れない。体中がガタガタと震えて、へたり込んだまま指すらも動かせない。小さな物音一つで、尖った牙が並んだ口で食いちぎられるか、或いは鋭い大きな爪で引き裂かれてしまいそうだからだ。しかも、恐怖で腰が砕けてしまい、この場から逃げようと動くこともままならない。本当に怖いというのは、こう言うことなのだろう。恐ろしさで一杯の頭の片隅で、なぜか冷静な自分が現状を見ていた。
 ふぅぅ、と生臭い息が顔に掛かる。喉の奥で小さくぐるる、と唸りながらクウだったそれが顔を間近へ寄せてじぃっと私を見ている。恐ろしさでその姿を見ることすら出来ない。目を合わせないように、下手に動かないように、興味を失って傍から離れるまで大人しくしているしかなかった。が、そうは行かなかった。牙がずらりと並んだ大きな口ががぱ、と開いたと思うと。肩に牙が食い込む。
 なんと言ったら良いのか判らないが、何本もの杭が同時に身体にめり込んだような感じだ。一瞬遅れて痛みが襲ってくる。
「ひ……、ぎぃ……っ」
 きゃあ、とか、ぎゃあ、とかの叫び声が出ると思ったのに、予想に反して小さな声を洩らすだけだった。大声を上げてしまったら腕を一気に噛み千切られるような気がしたからだろうか。大人しくしていれば、諦めて口を離してくれると思ったからかもしれない。
 果たしてそれは当たったのか。クウが深く歯を立てようとしたのを急に止めた。別の何かに興味を惹かれたのか、正体を知っていて苛立っているのか、短い唸り声を上げながらあちこちを見回し始める。
 助かった……?
 だが、甘い期待かもしれない。ズキズキと肩が痛む。クウが、いや、クウだったものがこれだけうろうろと落ち着かないということは、敵対する何かと言うことだ。ここにこんな『モノ』がいるなんて誰も知らない。であれば、救助を期待するのは浅はかと言うものだ。となると、同じようなバケモノである可能性が高い。バケモノが二匹? 二体? どっちにしろ複数いてましてや戦い始めたりした日には、無事ではいられないだろう。
 クウが嗅ぎ当てたそれは、何か気に入らないものだったらしい。明らかに警戒心と嫌悪が混ざった、剣呑な唸り声を上げる。同時にざわざわと長い毛が蛇のように蠢き、又一段と姿が大きくなった気がする。ちょうど部室の外、廊下を睨みつけるように姿勢を低くして唸る。微かにカツ、カツ、と廊下を硬い何かが叩くような音が響く。それが段々と大きくなっていく。
 それがピタリと止んだと思うと、耳をつんざくような大きな音を立てて部室の壁が部屋の中に向かって吹き飛んだ。余りに音が大き過ぎて、一瞬聞こえなかったくらいだ。舞い上がる埃と壁だった破片がぱらぱらと降る。小さな木材が頭に当たった。すっかり日の暮れた部室棟はすっかり真っ暗だ。日の入らない廊下は闇に沈んでいて、そこからぬっと大きな闇が侵食して来た。
「ひ……」
 私は辛うじて悲鳴を飲み込んだ。クウよりも倍は大きい。ざわざわと動く体毛が部屋の中の闇と混ざり合って、余計に身体が大きく見える気がする。ついでに危険な気配が、今まで感じていたクウだったものの気配を一瞬にして塗りつぶしてしまったように、あたり一面に満ちる。
 その巨大な影、いやバケモノは低く唸り続けるクウをちらりと一瞥したかと思うと、急に興味を失う。まるで相手にしていないようだ。そして、首をめぐらせて真っ赤に燃えるような目で私を見据えた。縫いとめられたように、いや一瞬にして石か氷漬けにされたように動くことも出来なくなる。
 ――これはダメだ。
 私は唐突に悟る。恐ろしさがクウの比ではない。
 ダメダメダメ。これはダメでしょ。
 慄く思考が、ダメダメ、と繰り返しそれ以外の言葉が出てこない。
 クウが私の前に立ち塞がる。『私』を守るためか、それとも『獲物』を守るためか。だが、うるさい蠅を払うように大きな方が軽く前足を振ると、クウが脇へ吹っ飛んでいく。たいした力も入っていないのに軽い石を蹴り飛ばしたような勢いで、部屋の壁へぶつかり、ドン、と大きな音を立ててめり込む。
 かつり、と大きな爪が近づいてくるにつれて床に当たって音がする。
 かぁ、と口が開く。宵闇の暗さなのに、何故かぼんやりと光っているように口の様子がわかるのが不思議だった。真っ赤な大きな舌。鋭く尖った大きな牙。滴る涎に熱く生臭い息が吹きかかる。
 ――死。
 その一文字が唐突に目の前に突きつけられた気がした。
 イヤなのに。死にたくないのに。何故。どうして。私が何をした。
 死を拒否する気持ちで一杯なのに、避けられぬそれが目の前に迫っていて、逃げられない。目を背けることも、意識を失うことも許されない。命の尽きる瞬間が刻一刻と迫るのを、ただただ何も出来ずに認識だけさせられている。
 誰か……! 助けて。
「サタン・フラッシュ!」
 そう声がしたかと思うと、青い光が走った。覆いかぶさるほどに近付いていたバケモノが、地の底から響いてくるような低く気味の悪い声で吼える。
 堰を切ったように私は叫んだ。

「候補生たちは、回復系と詠唱の増強などの後方支援を頼む。まだ致死節の判らない悪魔だ。属性も判らない。手探り状態になるから、回復系や聖水弾が重要になるからな。頼むよ」
 年嵩の隊長から候補生たちへの指示が下る。出雲たちはまだ祓魔師ですらないのだから仕方がない。後方支援も立派な仕事だ。それでも、直接的に祓魔に関われていないような気がするのは、わがままなのかもしれない。
 ――それとも思い上がりってやつ?
 指示に従いながらもちょっと不満そうな顔をする燐や勝呂を見ると、不満を覚えた心が鎮まっていくような気がした。
「そんな顔してんじゃないわよ。悔しかったら早く認定試験受かんなさいよ」
 出雲の言葉に、燐と勝呂がバツの悪そうな顔をする。
「重火器講習、中止ですからね」
「暴れたりひんて、坊欲求不満とか~?」
「何だよ、勝呂ヨッキューフマンとかって」
 やらしなぁ~、なんてわざとからかうような燐と廉造の言葉に、勝呂がうっさいわ、と潜み声ながら怒鳴る。
「皆さん、任務の途中ですよ」
 雪男の静かな窘めにぴたりと声が止まる。
「いくぞ」
 隊長の合図に従って隊が動き出す。軋んで傾いた扉が少し開いたままになっている入り口から、そろりと隊が入り込み、それぞれの担当範囲へ進んでいく。旧部室棟は老朽化により閉鎖が決まっていた。当然ながら水道や電気も止まっているはずだった。だが、正式な部活動が出来ず、それでも尚活動場所を求めていた同好会が勝手に集まって使っていたのをメフィストが知って、表向きには認可はしないが、活動には困らないようにとコッソリ水道と電気を提供するようにしたらしい。ついでに言うなら『旧部室棟の守護神』とやらもメフィストの仕業だった。
「禁止しようと、制限しようと、それでも尚諦められないという人間の熱意に、私は甚だ感服しているんですよ。それに私、これでも教育者の端くれですから☆」
 なんて本気だかどうだかわからない台詞を吐いていたが、それでもそう言う場所を提供してやるなんて、意外にイイ人……、イイ悪魔だ。