BRING BACK LATER 12
繋いでいた手が薄れ、アーチャーの指をすり抜けていく。
「な……、士郎っ? な、なぜだ、」
「アーチャー、ご、ごめ、わ、わら、えない、わら、おうと、思って、いた、のに、わらえ、ないっ」
涙を堪えながらシロウは謝る。
「な、何を、馬鹿な、なぜだ、どうし――」
「アーチャー、ごめん、消えて、っ、ごめん、なさい、アーチャー、」
虫食いのようにシロウの身体のあちこちが薄れていく。どういうわけか着ている衣服も薄れてしまっている。
「き、きえ、ったく、な……っ、まだ、アーチャー、と、まだ、っ、アーチャーと、」
「士郎!」
抱きしめても不確かだった。
確かな温もりも質感もない。
「さ、さい、ごは、笑おう、って、思った、のに、笑え、ない、っん、だ……」
「わ、笑わなくていい! 作った笑みなど無意味だと言っただろう! 笑うな、泣くな、士郎っ! っくそ、消えるなっ!」
「ごめ……っ」
シロウをかき抱き、口づけて謝罪の言葉も言わせない。
(謝罪など、要らない! ただ、お前だけがいればいい!)
アーチャーにはそれだけだというのに、叶わない。
「アーチャー……」
触れたままの唇が呼ぶ。
アーチャーが黒くしたはずの瞳は、透き通るような琥珀色だった。
「お前が好きだ、お前を離したくない、まだ、ここにいろっ、まだ、私の傍で、笑っていろ!」
『うん……』
頷くシロウは笑ったように見えた。
だが、アーチャーには笑顔には見えなかった。
抱きしめたはずの身体の手応えが無くなる。
触れていた頬の温もりが消える。
冷たい風がすり抜けていった。
腕の中にはもう、シロウの痕跡がない。
「なぜだ……っ、どうして、お前が消えなければならないっ!」
憤っても、戻らない。
どんなに強く抱きしめても、留めることは叶わなかった。
たった一つ失いたくない存在(もの)だった。
傍にと願った。
死後を明け渡した己でも、このくらいのことは許されるだろうと思っていた。だが、願いは叶わず、失ってしまった。
何がいけなかったのか。
何がシロウを消す原因だったのか。
許されないことだったというのか。
ならば、なぜ、今まで現界できていたのか。
疑問ばかりが湧いては憤る。
「士郎さえいれば、よかったんだ……。守護者も殺戮者も、なんだってこなしてやる。サボるつもりなど毛頭なかったというのに……」
誰に言い訳しているのかもわからない。
返してくれと誰かに頼めばいいのか。
なんでもするから、この腕の中に戻してくれと、誰に、何に、訴えればいいのか……。
憤りをぶつける先も見当たらない。
何もわからないままで、シロウを失った。
理由も、罪も、あるというのなら説明してくれと、食いしばった歯が、ぎり、と軋んだ。
赤い夕陽がアーチャーの影を長く伸ばしている。今ここにいたはずのシロウの影が見当たらない。
いつもと同じ夕暮れだった。なのに、傍にあった温もりは、確かに握っていたはずの手は、消え失せて見つけられない。
「……っく…………そ……」
握りしめた拳を開く。
「ああ……、お前……」
掌に雫が残っていた。
「たわけ……」
跡形もなく消えたシロウが残した、唯一の証だった。
「どこほっつき歩いてたのよ!」
深夜になろうかというのに凛の声量はマックスに近い。
「今、何時と思……って……」
衛宮邸の玄関先で出迎えた凛の大声が萎んでいく。
「アーチャー……、ねえ……、シロウは……?」
凛は呆然として訊く。
シロウと一緒に出掛けていたアーチャーが、一人で帰ってきたことの意味が凛にはわかっている。だが、理解したくないと心が否定する。
「ねえ……、シロウ、どうしたの……?」
「凛……、もう……、消してくれ……」
凛が拒否しようとした現実を、アーチャーの言葉が打ち崩す。
「なに……言ってる……のよ……」
アーチャーは足元を見つめたままだ。
「契約を、解除してくれ……もう……」
耐えられそうにない、と、アーチャーは血を吐くようにこぼした。
「アーチャー! シロウは、シロウは、どこにっ!」
凛とともに二人の帰りを待っていたセイバーが、突かれたように土間へ下り、アーチャーの腕を掴む。答えることのないアーチャーの腕を揺すり、シロウの所在を訊こうとするセイバーの肩に、士郎が手を置く。
「セイバー」
士郎に宥められ、セイバーはアーチャーの腕を放した。
足元を見つめたままのアーチャーの横顔に表情はない。
ただ、何かが抜け落ちたような、削ぎ落とされたような、そんな印象を受ける。
「……わかった。解除するわ」
「凛?」
「遠坂?」
凛の行動は早かった。士郎とセイバーが止める間もなく、凛はアーチャーとの契約を解除していた。
「すまない、凛」
「いいのよ」
上り口に立ったままアーチャーの頭を引き寄せ、凛は肩に預けさせる。
「辛かったわね」
まるで子供にするように、凛はアーチャーの背をさすり、白い髪を撫でた。
アーチャーは泣いているわけではない。ただ、凛の肩に額を預け、握った拳を震わせているだけだ。
泣くことができたら楽なのに、と凛は小さなため息をこぼす。
泣いた方が何倍も救われる。
泣くこともできないアーチャーは、シロウへの想いをどうすればいいのかわからない。昇華することもできず、消し去ることもできず、ただ、このまま抱えていくことしかできない。
この先の永遠を、アーチャーはその想いを抱え、ひとり歩んでいく。
士郎もセイバーもかける言葉がない。アーチャーが何よりシロウの消失を回避したかったことなどわかりきっている。
だというのに、シロウを目の前で失ったアーチャーに、何と声をかければいいのか見当もつかない。
現界していることが耐えられないと、おそらく初めて弱みをこぼしたアーチャーを、慰めることも励ますこともできず、士郎とセイバーはアーチャーと同じく、途方に暮れているしかなかった。
「士郎……」
別棟の洋室は、シロウがいた時と変わっていない。今朝、家を出た時のままだ。ただ、シロウが消えてしまったというだけのこと。
部屋の隅に置かれた衣装ケースにはシロウの衣服が数着、きれいにたたまれて残っている。凛がシロウのためにと買い揃えたその服も、着る者がいなければ無用の布切れだ。
蓋を開けると、一番上に夏物のアウターがある。アーチャーが選んでくれたと言って、シロウはうれしそうに着ていた。
手に取って、握りしめる。
「何も守ることができなかった……」
シロウの心を守りたいと、大事にしたいと、ずっと傍にいたいと、離さないと、座に連れ還ると、たくさん言葉にしたことは、一つも守れなかった。
「好きだった……お前が……、ずっと、傍にと願ったのは、お前だけだというのに……」
膝をつき、シロウのアウターを抱きしめて、空いた手で目元を覆う。
「お前だけは……失いたくなかったのに……」
他の何を失ってもよかった。
この腕もこの脚も、シロウが存在するために必要ならば切り落としてもかまわなかった。
だが、それもできず、シロウは消えてしまった。涙一雫、掌に残して。
「士郎……」
何度呼んでも答える声など聞こえない。
作品名:BRING BACK LATER 12 作家名:さやけ